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2015年1月28日 (水)

諸事多難

 イスラム国の人質問題はソフト・ランディングする事を心から願うが楽観はゆるされない。日本はともかく世界は何時の時代も騒乱は耐えない。この惑星の状況を高い知性をもったエイリアンが宇宙から観察しているとすると地球人という人間どもは、どうしようもない生物だということになるだろう。

 ことほどさように、安楽に生きているように見えるアカショウビンもこの惑星での生存時間は限られている。先日は3月いっぱいで定年退職ということにあいなった。昨年もゴタゴタしたが今年は覚悟を決めて2月中に就職できるように就職活動に専念しなければならない。

 最近は好きな映画を観る時間もない。本も集中する時間が実に短い。岩波版の「存在と時間」(1960~1963年 桑木 務 訳)を冒頭から少し読み直したが評判よりは良い訳だと思う。1941年というから戦時中のハイデガーの写真も主著を書いてから10数年を経て新たに見ると何やら感慨深いものがある。

 本日は有楽町近くの会社へお仕事。いろいろ面白い話も聞けた。やはり人と会い肉声から様々な情報を得ることが人間という生き物、少なくとも近代になってから現代の文明国ではスピード化と共に不可欠となっている。

 明日は甲府へ日帰り仕事。昨日は静岡。富士山が実に美しく見とれた。静岡は今年、家康没後400年ということで様々なイベントが企画されている。静岡といえば、わさび漬。帰りの新幹線で缶ビールのツマミで頂いた。風邪気味で扁桃腺が腫れているのか山葵の辛味に閉口したがこれはやめられない。

 本日はNHKのFMでベルリン・フィルのマーラーの4番を聴きながらエネルギーを充填。書斎ではブーレーズがシカゴ響を指揮した1996年のバルトークの録音も流す。アカショウビンの日常に音楽は不可欠の媒体なのだ。ここから更に気力を集中して未読の本や再読する力を奮いおこさなければならない。

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2015年1月26日 (月)

映画と音楽の奇妙な共振

それは不思議というのか奇妙というのか。それをユングの用語を使えば「共時的」となるのだろうが奇妙な共振といってよかろう。アカショウビンの中では何やら不可思議な思いがしたのである。昨年の暮れに亡くなった高倉 健さん(以下、敬称は略させて頂く)の出演作品を中心に観続けていて「あ・うん」(降旗康男監督1989年 東宝)を観た。公開当時に観て降旗監督と高倉 健の新境地を開いた作品として興味深かった。原作は向田邦子。東映任侠・ヤクザ映画でタッグを組んできた二人がホームドラマという新たな世界へ飛び込んだ作品だ。東映任侠映画では高倉の相方を務めた富司純子も出演している。俳優としては素人の元プロ野球選手、坂東英二を起用しているのは意表を突かれたが、物語は任侠映画での高倉の役回りが富司をめぐって舞台を変えて展開される。時代設定は1937年(昭和12年)。日中戦争で南京陥落の祝勝ムードに沸き立つ頃である。

物語は坂東・富司夫婦の娘、富田靖子の悲恋も絡ませる。監督のメッセージが伝わる気もした。それは戦時の時代に知らず翻弄される若者たちの姿だ。原作でつかわれているか知らぬが、バイオリンを練習する富田が帝大生の恋人との恋愛でシューベルトの「未完成」交響曲の楽譜を胸に抱くシーンがあったことなど忘れていた。しかし、そこに監督と脚本家のしかけと意図が推察される。その恋は帝大生の出征で悲恋となる。しかし、そのシーンの高倉の行動が作品の肝といってもよく胸を打つ。このシーンで、高倉の新境地は元の任侠映画の高倉のイメージを引き継ぐものとして降旗・高倉コンビの新境地を開いたと解する。「冬の華」(1978年)、「駅STATION」(1981年)、「居酒屋兆治」(1983年)、などに共通する両者の新たな作品世界が切り開かれたことを実感する。

不思議な奇妙なこと、というのはそんな時に日曜朝の「題名のない音楽会」を見ていると兵庫県立文化センター設立10周年、阪神・淡路大地震で亡くなられ方々を追悼し佐渡 裕氏(以下、敬称は略させて頂く)が35歳以下という制限の若いオーケストラを指揮してシューベルトの「未完成」交響曲を演奏していたからだ。この有名曲は西洋クラシック音楽が好きなら多くの日本人が耳にしたことがある作品だ。映画にもなった。その作品を佐渡 が感極まったかのように演奏している。悪くない。佐渡は情の人なのだ。京都育ちとはいえ浪花節的な感性をもっている。小澤征爾にもそういうところがある。それは海外で仕事をし生きる時に大事な要素と思われる。歴史と食生活などは海外でも同じような人間の強い関心事なのだ。それを二人の日本人指揮者は仕事に反映させている。それは恐らく洋の東西南北を問わない。人が生きる根拠はそこにある。

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2015年1月25日 (日)

発言の重み

 安倍首相の発言によって二人の日本人の生命が奪われようとしている。それに首相はどのように責任を取るのか?朝からテレビを見ていてテレビ局の何ともトロイ発言に呆れた。マスコミなどというものはそういう代物である。二人の人間の命が公開で殺害されるという仮想世界の〝事実〟は極めて世界の現在を反映している。それは既に湾岸戦争で明白になった。しかし、今回の件には時の首相の発言が大きく喧伝されている。それに首相はどう責任を取るのか?

 かつて俳人の金子兜太さんは、何とおっちょこちょいな人かと揶揄した。それをアカショウビンは思い出した。友人は安倍首相を「いいかっこしい」と言った。しかし、それは、そのような切って捨て方で済むものではないだろう。二人の人間の命に自分の発言が関わっているのである。この〝事件〟が、どういう結末を迎えるのか誰にもわからない。首相官邸には判断が迫られている筈だ。恐らく首相は一人の命を見捨て、もう一人の命も見捨てるだろう。〝国家意志〟というものがあるとすれば、それを首相は体現し自らの言動の担保とするだろう。しかし、それがどうしようもない古典的で古風な〝仕来り〟に捉われたものであるか、ということに気づいてはいまい。それを知った確信犯であるのである可能性はある。しかし、その事にアカショウビンは同意できない。

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2015年1月15日 (木)

吉本隆明特集

 NHKで先日放映された放送の全部は見られなかったが、上野千鶴子氏ほかの言説は再考し新たに吉本思想を検証しなければならない。

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2015年1月14日 (水)

パックス・ジャパン

 現在の世界は大戦の惨禍はないとしても、あちらこちらで局地戦は絶えない。中東の宗教戦争は世界に飛び火している。フランスのテロはその一端でしかない。それからすれば日本は平和だ。それを現政権は逆行させようと画策している。その愚挙に多くの国民はフランスや欧米のように声をあげていない。戦後70年、パックス・ジャパンは何時まで続くのか。それは普通の国家に戻るのではなく、新たな歴史を切り開く可能性と言える。それを逆行させようとする現政権には身命をかけて戦わねばならぬ。

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2015年1月13日 (火)

如是我聞から如是我問へ

 釈迦の弟子たちは釈迦の死後、師がこう言ったという「如是我聞」という記録を残している。それは後世に様々に解釈されインドや中国、日本で新たな思想・宗教運動として展開された。それは時に現在でいう原理主義の如きものとなる。昨今のイスラム国のテロも淵源はそこにあるように思う。歴史を振り返ればキリスト教国側がイスラム教の原理主義的という保留はつくにしてもテロ行為を批判する資格があるとも思われない。宗教的信条というのはそういうものである。それは歴史を辿れば理解できる。強いて言えばそれは仏教哲学で言う人間という生き物の「業」である。それを如何に乗り越えるか、あるいは乗り越えられるか、という問いが立てられるだろう。仏教徒たちが如是我聞と語った事から如是我問と立場を異をにして過去から未来の可能性を探り実践しなければならない。

 それはハイデガーが思索しぬいた存在論を超える領域として思索、実践することである。同様にそれは西洋哲学の範疇で言えば「存在論」と「認識論」を超える領域を越えるということである。それが果たして可能かどうか。その問いがこの惑星で生息する人間という生き物の究極の問いなのではないか。

 

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2015年1月 9日 (金)

秀作の公開

  昨夜、都内での試写会へ高校の同窓生N君の招待で行ってきた。「ジミー、野を駆ける伝説」。英国のケン・ローチ監督の最新作だ。期待して新宿の会場に行ったが睡眠不足で睡魔と戦いながら。時に居眠ってしまい 残念。しかし佳作か駄作、愚作かはわかる。佳作である。舞台はアイルランド。美しい景色が呼吸しているかのように美しい。それに出演者たちの台詞のみごなこと。英語とアイルランド語の響きの見事さがアカショウビンにもよくわかる。舞台で役者達が発声するように明晰で明確だ。最後の音楽はアイルランドの古謡。シュー、シュー、 シュラルという歌詞は聞き覚えがある。ピーター・ポール・アンド・マリーの「虹とともに消えた恋」のイントロと同じだ。あの曲が英語でなかった理由がわかった。

 歴史に名が残されていなくても人々に慕われ畏敬された人はどの国にもいるのだ。それをこの作品は監督が見事に伝えている。多くの皆さんに観ていただきたい。佳作というより秀作だ。全国公開は17日(土)から。

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2015年1月 1日 (木)

新しい年に

 還暦を過ぎて余生を生きる渦中に「門松は冥土の旅の一里塚」という句は心身で納得する句である。大晦日から新年にかけてはレンタルDVD三昧と、先ほど終わったウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのライブ演奏で過ぎた。

 DVDは、昨年逝った高倉健さん(以下、敬称は略させて頂く)と菅原文太出演、主演の作品を再観して過ごした。他にも洋画と邦画を幾つか。本日は未明に森田芳光監督の遺作「僕達急行 A列車で行こう」を観た。体調の不調のせいもあったのだろう、少し物語の展開のテンポの冗長さを感じた。しかし幾つかのカットは森田とキャメラスタッフらしい見事な映像が楽しめた。日本映画は戦後の川島雄三や優れた才能を若くして失い森田の早世も痛恨の極みだ。健さん、文太にしても日本映画の傑出した俳優の死は時代の変遷を痛感する。しかし80余年の生涯は早世した川島や森田の早すぎる寿命からすれば以って瞑すべしだ。

 戦後の日本は、復興と高度成長時代の中で映画という娯楽が民衆の力を励起してきた事を同時代を生きた者として実感する。アカショウビンは特に幕末から維新、明治、大正、昭和の歴史事実を幾つかの資料や映像で学んできた。東映任侠、ヤクザ映画もそうである。もちろん外国映画も。それは歪で矮小な世界かも知れぬが世界という用語を使えば正しくそうである。最近の日本映画への様々な意見はアカショウビンにも言い尽くせないほどある。それはさておく。今後も随時感想は述べていくつもりだ。

 ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは途中から観た。指揮のズビン・メータは何年かぶりだ。指揮者として名匠の域に達しているのだろう、オーケストラとの遣り取りには旧友再会の趣もあった。それにしても映像で観たウィーンの街の姿には近代化と画一化を痛感した。良くも悪くも西ヨーロッパが世界を支配していった時代にウィーンは象徴のような都市である。戦火のなかで西洋音楽の象徴として洋の東西を問わず音楽好きの人々が訪れる。会場も新年の祝賀に満ちた指揮者とオーケストラメンバー、聴衆との交流が微笑ましい。われらが小澤征爾にも存命中に再度のお呼びがかかってほしいと切に思う。小澤という人と同時代を生きられる喜びは日本人として音楽好きとして恐らく音楽だけでなく、人と音楽というテーマで展開できる。それは小澤氏と村上春樹氏の対談を読めば多くは語られ文字にされているともいえる。しかし恐らく小澤という人の生涯と全貌はそれで尽くされるわけでもない。後進は育ってきている。しかし小澤という日本人として傑出した指揮者は歴史に刻み語られ続ける存在だ。

 暮れには2002年のサイトウ・キネン・オーケストラとのベートーヴェンの第九のライブCDも中古で購入した。改めて昨年購入したマーラーの第九とも併せて聴き新年のエネルギーを充填しよう。

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