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2014年12月28日 (日)

神々の黄昏

 

 昨夜、たまたま今年のバイロイト音楽祭の「神々の黄昏」を途中から聴いた。アカショウビンは、いわゆるワグネリアンではない。しかし、この通俗的とも言える神話という虚構を介してワーグナーが拵えた音楽の面白さは格別だ。昨今評判のティーレマンかと思ったら別な指揮者と演出に替わっていた。ネットを見ると殆どが酷評である。それはソリストと演出に対するもので指揮者とオーケストラにはそれほどのものではなかった。確かに〝ジークフリートの葬送行進曲〟は実に壮麗で見事なものだった。アカショウビンにとっては、ここが作品の急所といってよい場面と音楽だ。演出でなく音楽に集中すればいいというわけにもいかないのが会場の観客であろう。それは昨年や今年のものだけではない。1980年のブーレーズとシェローの時もそうだった。

 それはともかく、久しぶりに対訳と照らし合わせて聴く「神々の黄昏」第3幕はワーグナー作品が到達した境地を堪能した。

 それは通俗と脱俗、あるいは超俗という用語で何か一筋の光明とでもいうものが現れるかもしれない。戦後にハイデガーは、神々の輝きが失われた、と語った。その神々とは古代ギリシアの思想家、哲学者が思索した神々だ。ハイデガーの思索はキリスト教に支配された西洋哲学を転覆させる意図に貫かれていると言ってもよい。それはナチズムに関わった哲学教師という履歴を超えて後の人々が思索、考察しなければならぬ領域と確信する。生身の人間はハイデガーの言い方を借りれば「世界内存在」として規定される。しかし、そこから脱しようという意図を人間という生き物は持つ存在だ、というのがハイデガーの思索の根本にある。それはドイツ語圏のなかでも〝神秘思想〟として閑却されているという記事も読んだ。しかしハイデガーの思索と考察の根本は、そのような通俗を脱しようとする苦闘とも言える。

 それはともかく、久しぶりにカール・ベームの1967年の録音を聴き直した。今年のバイロイトとの比較はさておく。しかしワーグナーの音楽の媚薬というのか魔力とでもいうものには抗し難い。そこからハイデガーが講義したシェリング哲学の悪の形而上学への再考、再々考もしなければならないが、それは改めて試みよう。

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