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2014年9月27日 (土)

土着性と故郷

   昨年、21年ぶりに帰郷してから一年が過ぎようとしている。そこで表題の主題をハイデガーの論説、言説と共に再考していこう。土着性という概念は有用な導きの糸となる。それはまた1927年に出版された「存在と時間」(創文社版では「有と時」)という特異な書物を更に新たに読み解く作業でもある。またそれは木田元氏の業績を継承する事となるのは言うまでもない。

   戦後、ナチ疑惑から盟友のヤスパースらの支援もあり復帰して言説が発表された時に「有と時」以来の思索と共に指摘した次の警告は今やあらたな光芒を放ち我々に熟考を迫る。すなわち西欧の歴史の中でギリシア以来の〝技術〟がデカルト以来の西洋哲学で歪な発展を遂げた、という「有と時」の主題を導くことにもなる主張と警告だ。保田與重郎の戦前から戦中、戦後の発言と作品にもそれは色濃く反映しているようにも思われる。また近代という時代区分の災厄は洋の東西で正しくそこに起因するのではないか?

 表題の主題を考察する前にハイデガーが「有と時」を出版する頃の思索を確認しておくことは無駄ではあるまい。1923年夏学期のフライブルグ大学での講義録を参照しよう。「オントロギー(事実性の解釈学)」(1992年 創文社)にまとめられている。その中でハイデガーは「伝統的ならびに今日的な有論の原理的な不十分さは、次のような二重の点に存している」(同書 p5)として同書の主旨を説明し問いを投げかける。

 ①そうした有論にとっての主題は最初から一定の諸対象の対象(強調の読点が付されている)で有ること<Gegenstandsein>、対象性であり、中立的な理論的思念にとっての対象、ないしは対象にかかわるある一定の自然の科学や文化の科学にとっての実質的な対象で有ることであり、またせいぜいのところ、対象領域を通して観られた世界であるが、しかし、現有<Dasein>と現有の諸可能性から見られた世界ではない。あるいはまた、他の理論的でない諸性格がつけ加えられる。(世界としての自然と対象領域としての自然という「自然」の両義に注意せよ。世界としての「自然」はただ現有、歴史性から形式化されるのであり、したがって、それの時間性の「基盤」ではない。[同様のことが]「身体」についても言える。)

 ②そこから次のことが生じてくる。すなわち、そうした有論は、哲学的問題系の内部において決定的に重要な有るものへの、つまりそこから、またそれによって哲学が「有る」ところの現有(これも読点が付されている)への通路をふさぐことになる。

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2014年9月23日 (火)

木田元氏の業績と功績

 若い友人の就職祝いで新橋で一杯やったときアカショウビンにお気遣い頂き何十年かぶりで目にした〝週刊読書人〟の9月12日号の木田元特集の教え子さん達の対談を読んで氏の業績と功績に思い及んだ。何ともわれわれが思い描く哲学教師とは異なる破格の優れた教師の姿が二人の追想談から読み取られて啓発された。授業のあとの飲み会とかカラオケは、かつての、あるいは現在のアカショウビンの怠惰な日常とも関連してくるからである。木田氏は哲学教授としてハイデガーと同じように哲学教師たちを育てただろうがハイデガーを介して教え子たちが評価するメルロ・ポンティの翻訳の優れた仕事とは別にハイデガーの優れた読者として弟子達の目標ともなったことを理解させた。それは木田氏と同様にハイデガーの著作、講義録を読む面白さからアカショウビンも同様である。木田氏が晩年に出版された「すべて小林秀雄から教わった」という著作で小林秀雄や保田與重郎に言及している事は、碩学には恐縮だがアカショウビンと同じ恩恵を受けているからである。絵画や音楽、文学、思想はアカショウビンも小林から教えられた。最近の若い研究者たちから小林秀雄がハイデガーと比較されていることもかつて読んだ。それもまた面白い視角だと思う。戦後の闇市のなかで貪欲な知識渇望からドストエフスキーやハイデガーに生きる活路を見い出した木田氏の精神的枯渇は現在のアカショウビンの日常が激しく共振する。木田氏の教え子たちと場所を違えて同時代を生きたアカショウビンの青春は異なるが、どこか通底してるのを知ったことは幸いである。

 木田氏のあとにハイデガーを読み継ぐ私たちは、原発時代の西洋哲学的、思想的到達点から更に高みを目指さなければならない。それが木田氏の遺志を継ぐことであり、ハイデガーの思想を更に継承し乗り越えることであるからである。

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2014年9月22日 (月)

我々が当面している現在の状況

さて我々の現在の政治状況と思想状況を俯瞰すると相当の決意をもってあたらなければならないのはいうまでもない。先日は若い友人と、そのような話で意見を交わした。
   先日、惜しくも逝去されたハイデガー研究の第一人者、木田元氏のお弟子さんたちが週刊読書人紙上で師の思い出と業績を語っていた。ハイデガー研究はじめ多大な業績は後輩達が継承していくだろう。今後の日本の思想界にも貢献していくことは間違いない。アカショウビンも微力ながら精進を重ねたい。

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2014年9月18日 (木)

映画三昧とオペラ

 連休は二日間は仕事絡み。アホらしくて酒でも飲まないとやってられない。ウィスキーをチビチビ飲みながら。もっとも日曜日は将棋、囲碁を観たあと、明け方までレンタルDVD三昧。評判の「のぼうの城」も遅まきながら観た。新作ではあまり観たいものがなく、「荒野の用心棒」を久しぶりに。映像もさることながら音楽がいいのだ。エンニオ・モリコーネの音楽が作品を生かしている。その勢いで手持ちの「夕陽のガンマン」。C・イーストウッドとリーヴァン・クリーフが絶品なのだ。それらの作品が先日観直した「ウェスタン」に結実する。セルジオ・レオーネ監督は亡くなられたがC・イーストウッドもエンニオ・モリコーネも健在だ。中学時代からの同時代を生きる幸いを確認した。 

 しかし男心をそそる映像には時に人の声の優しさが聴きたくなる。衝動的に小澤征爾の「カルメン」を引っ張り出し聴いている。何とも柔らかなオーケストラと歌手達の見事な声に心和む。松本のサイトウ・キネンを一度は聴きに行かねばならないが今年も叶わず。映像とCDで小澤征爾という類稀な音楽家の音楽を楽しめる幸いを今生の思い出に心身に叩き込む。

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2014年9月14日 (日)

戦後の思想空間

 戦後の思想空間の中で加藤周一の論考、言説は熟読、吟味しなければならない。「加藤周一セレクション」(1999年9月15日 平凡社ライブラリー)はその一つだ。短いがサルトル論が面白い。サルトルが1966年に来日した時の「知識人の擁護」に加藤は言及している。それは現在の論壇、文壇の現状とも絡んでくる。現政権の幼稚と愚劣も痛罵と殲滅の一撃を与えねばならない。そこに加藤の論考は痛烈な意味合いをもってくるからだ。

 それは左翼とか右翼という問題ではない。人間という生き物がこれから宇宙にどのように生息していくかという問題である。それはハイデッガーが説く世界内存在という概念と密接に絡んでくる。加藤や欧米哲学では内在性と外在性という概念に象徴されているものだ。サルトルについて言えば精神分析で説く無意識を否定した事でアカショウビンはサルトルの限界を痛感した。それは多言を要するがさておく。

 加藤の視野は実に広い。それは丸山や吉本の視野の広さと共振するものだ。それを我々は引継ぎ、熟考しなければならないのだ。それは現政権の無知と狭窄に根本的な違和を主張することである。

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余生を生きる時間

 残り少ない余生にやっておかねばならない事は山ほどある。しかし時はいつの間にか過ぎていく。出来ることを絞らなければならぬ。故郷へ昨年帰郷してご先祖の墓参りも済ませた。あとは現在を生きて残す事だけだ。仕事はそれなりにこなせばよいが消耗するだけだ。その間に連休の時間は貴重だ。

 本日は棲家の周辺を久しぶりに散策した。かつて大阪に棲んでいた所と北関東の地は少し似ているので直感的に決めたのだ。大阪では淀川の近くだったが、こちらは利根川水系のこじんまりとした風景である。それがかえって好い。鷺がゆったりと舞い蝉の声も残暑の安らぎを想起させる。ここのところの朝夕の涼しさは夏の終わりを予感させたが、まだ九月だ。ネットでは中島みゆきの「船を出すのは9月」という曲も紹介されていて、久しぶりに中島のアルバムを聴き直した。「生きていてもいいですか」や「短編集」は疲弊したこちらの気力を触発する。中島みゆきと同時代を生きることは幸いだ。

 政治情勢や論壇、文壇にも物足りなさを痛感する。ハイデッガーを読み直し現在の歴史空間を再考し此の世で言い残した事を集約しなければならない。アンポンタン政権というより、この腐れきった政権を撃滅させなければ死んでも死にきれない。戦後の此の国の政治状況や思想状況は世界と連関している。腐れ政権は憲法改正をはじめ歴史的後退を愚劣に強要している。麻生のような低脳児を副総理に据え、石破との遣り取りも世界から見れば将棋や囲碁でも全局が見渡せない狭窄を自覚できないヘボ棋士同然だ。

 ここは冷徹に識者の言説、論説に接し背筋を伸ばさなければならぬ。加藤周一や丸山眞男、吉本隆明、小林秀雄、保田與重郎、ヤスパース、ハイデッガーの論説を熟読しなければならぬ。残された時間はそれほどあるわけでもない。

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