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2014年8月30日 (土)

長野から佐久、松本、飯田へ

  きのうは松本で一泊。レンタカーで長野へ。一仕事終え、高速道路をぶっ飛ばし佐久へ。ここで一仕事。終わって高速で松本へ戻りレンタカーを返却。高速バスで飯田へ移動するつもりが満席。さぁ、困った。ホテルは予約してある。遠回りだが電車にした。7時35分、松本を出発。岡谷で乗り換える。ここまで約30分だが、ここから3時間近くかかる。飯田に着いたのは11時前。途中から雨になり飯田ではかなり降っていた。駅前の中華料理屋で台湾ラーメンを食べるつもりが閉店。仕方なくコンビニで、おでんと寝酒用のウィスキーのポケット瓶を買ってホテルへ。やっと一息つけた。それにしても飯田まで夜汽車に乗ったのは久しぶり。バスとは違う味わいがあるのだ。闇の中に点々と灯りがともる。その景色を眺めながらガラガラの車内で寛ぐ。それもまた好し。本日はレンタカーで飯田を駆けずり回る。

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2014年8月27日 (水)

長野出張

  春以来の長野出張。新宿から高速バスで飯田に入る。事前に予約すると、バイキング形式で朝食の美味しい馴染みのホテルは催し物があるとかで満室。ところが以前一度泊まったことのある、ホテルというより旅館が空いていた。名称が思い出せなかったが電話番号の記載されているマッチを持ち帰っていて、電話すると空いているという。喜んで予約した。バスの終点からも近くてありがたい。初老の夫妻の対応が好い。朝から食欲がなくバスの中で弁当をやっと食べたが体調は相変わらず万全とはいいがたい。夜は飲み屋で一杯飲んでホテルに戻る。部屋に風呂はなく共同風呂へ。狭いが誰もいず、ゆったりと寛げた。飯田に入る前は土砂降り。明日の仕事が案じられたが飯田に着いたら止んでいた。

  15日前後の新聞やテレビにはできるだけ目を通したが、安倍アンポンタン政権を壊滅させるにはまるで物足りない。しかしネットで教示された神奈川新聞の骨のある論説には刺激された。政権壊滅に更に声を上げよう。

   明日は夕方、バスで松本へ移動。サイトウ・キネン・オーケストラの演奏会などで、こちらも行きつけのホテルは満室。別のホテルになった。室内楽のコンサートでも聴かれる時間がとれればいいが、無理だろうな。

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2014年8月24日 (日)

夏を往く

 木田さんが亡くなられたのは16日だ。たしか大腸ガンを患われていたのは何かのメディアで知らされていた。新聞報道での死因は肺炎だったがガンとの闘病の体力消耗によるものと思われる。16日という日付は敗戦の日まで気丈に耐えられたのであろう。先の大戦を経験された人々にしか、その生き様の奥底は計り知れないものと思う。

 先日は久しぶりに文庫で、島尾敏雄(以下、敬称は略させて頂く)と吉田 満の対談を読み直した。新編で、橋川文三の「戦中派とその『時間』」(毎日新聞 1980年4月4日 夕刊)、吉本隆明の「島尾敏雄-戦争世代の大きな砦」(1986年11月15日 『静岡新聞』)、鶴見俊輔の「吉田満-戦中派が戦後を生きた道」(2001年 『潮』8月号)、が収載され、「もう一つの『〇』」のタイトルで加藤典洋の解説が付け加えられている。

 この対談は昭和53年8月に中央公論社から出版された。島尾が吉田の「戦艦大和ノ最期」を、それまで読んでいなかったという発言には改めて驚いたが両人は「夕方から夜おそくまで」(島尾)語り合って尽きなかったという。もう一度語り明かしたかっただろうが、吉田は早世する。「散華の世代から」(1981年 吉田 満 講談社)には昭和19年から51年までの吉田の論考と昭和50年にNHK教育テレビで行われた大久保喬樹との対談が収められている。これは何度か繰り返し読んできた。夏が終わるまでに再考の契機となるだろう。

 23日の毎日新聞の朝刊には「[戦争と大量虐殺] 必然の倫理観喪失」のタイトルで柳田邦男の論考が掲載されて新たな事実を知った。そこで引用されているソルジェニーッインの「煉獄の中で」から引用した一文は書き留めておこう。

 「いかなる戦争も解決にはならない。戦争は破滅だ。戦争が恐ろしいのは、火災や爆撃のためではなく、何よりも、自ら思考する者すべてを、愚鈍の必然的な暴力に追いやってしまうことだ・・・」

 柳田は、先の大戦でソ連軍による日本人虐殺の葛根廟事件を紹介して同様のイスラム過激派集団「イスラム国」のクルド族・ヤジディー教徒の大量虐殺、女性や子供の生き埋め行為を批判している。われわれは同時代のそのような現実と共時して現存していることに迂闊であってはならない。

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2014年8月19日 (火)

木田元さん追悼

 木田元さんが亡くなられた。戦後のハイデガー研究の第一人者といってもよい碩学だった。学生時代に読んでから、その難解さに懲りて時々抜き読みする程度だった「存在と時間」を本格的にハイデガーの講義を含めて読み直そうと気を引き締め直したのは「政治という虚構」(1992年 フィリップ・ラクー‐ラバルト 藤原書店)だった。この書物はフランスで1987年に出版されて激しい論争を起こしたヴィクトル・ファリアスの「ハイデガーとナチズム」(1990年10月 山本尤訳 名古屋大学出版会) という書物に対抗して出版されたものだ。ハイデガーの擁護論でもある。ハイデガーが戦後もナチだった、という告発・暴露本に対して著者は哲学者の立場からハイデガー哲学の独自性を説いた。

 戦後のハイデガーを理解するうえで「ツォリコーン・ゼミナール」(1991年 メダルト・ボス編 みすず書房)も参考になる。難解な「存在と時間」を理解するうえでハイデガーの生(なま)の声が読めるからだ。木田さんのハイデガー解説本は、アカショウビンのハイデガー理解のその後の読書の中で出会ったものだ。「ハイデガーの思想」(1993年 岩波新書)、「ハイデガー『存在と時間』の構築」(2000年 岩波現代文庫)は、ハイデガー研究者の第一人者として面目躍如の解説書だ。友人のヤスパースに原稿を見せ出版までの経緯が詳細に書かれている。原稿を見せられたヤスパースが、何が書かれているのかさっぱりわからなかった、というところも面白かった。それほどあの書物の異様さと不可解さは同業者にも理解されないほどの射程を有していたということだろう。

 それはともかく、その後の創文社のハイデガー全集の刊行では「存在と時間」が「有と時」という訳になっており、他の著作も存在と時間という訳語は有と時という訳語で統一されている。木田さんは、それを揶揄しておられた。そのような近況を著作や新聞インタビューで読みながらの訃報だった。主著のほかにハイデガー哲学の全貌が明らかになるのはこれからだ。木田さんの衣鉢を継ぐ教え子やお弟子さんたちは少なくない筈だ。アカショウビンもご逝去を心から追悼し木田さんの情熱と熱意をハイデッガー読解に余生を費やしたいと思う。

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2014年8月15日 (金)

現在の行き着く先

 8月12日の毎日新聞夕刊にジャーナリストむのたけじ氏のインタビュー記事。何と99歳で元気でおられる。戦時中、朝日新聞記者として活躍し戦後、戦争責任を取り退社。のちに秋田県横手市でタブロイド版の週刊新聞「たいまつ」を1978年まで続ける。アカショウビンが高校から大学時代に近況を新聞で読んだのは同紙の最後のころ。いわゆる反戦思想の在野のジャーナリストとして記憶されていた。その記録は文庫として「たいまつ十六年」(2010年 岩波現代文庫)に収録されている。戦後を振り返るときにモニュメントとして昧読すべき記録だ。

 そのような記事を読んでいる中で防衛省が奄美へ陸上自衛隊の配備を計画し地元がそれを受け入れたとのベタ記事が同じ毎日新聞に。副防衛相が朝山毅・奄美市長、房克臣瀬戸内町町長と、それぞれ会談し「民意は反映されている」(朝山)、「心より受け入れたい」(房)と述べたという。防衛省の計画は奄美市に350人規模の、警備部隊と中距離地対空誘導弾部隊を配備し瀬戸内町には250人規模の自衛隊を配備する計画だ。

 アカショウビンの母は祖父と共に眼病の治療に昭和19年10月、徳之島から奄美大島に向かう貨客船で米軍艦載機の銃撃を受け九死に一生を得た。沖縄の地獄は生じなかったが兵士達は死を覚悟した特攻を行うべく待機していた。奄美南西部の加計呂麻島で特攻艇「震洋」を指揮していた島尾敏雄は当時の事を戦艦大和の生き残り、吉田満氏と戦後30年後の対談で当時を振り返っている。「新編 特攻体験と戦後」(中公文庫 2014年7月25日)。

 徳之島沖は大和が撃沈されたところだ。その後、慰霊碑も建てられている。吉田満が米軍の猛攻と激戦している時に島尾隊長は島で特攻の訓練に勤しんでいた。その生き残り達が先の大戦を語る。それからさらに40年近くが経過し、何やらきな臭い動きが政治的に進められている。対談では沖縄の渡嘉敷島での集団自決の話も出てくるが、さらっと触れられる程度だ。島尾は遂に特攻を経験せずに死の淵での覚悟のみで生き長らえる。吉田も四国の地で敗戦を迎える。

 現在の安倍アンポンタン政権の今後は注視し声を上げねばならぬ。先の大戦の生き残り達の声を聴き取る能力が現首相と閣僚達にあるとはとても思われない。69年前の現状が形を変えて、またぞろ亡霊のように徘徊し始めている。それは西洋近代の突出に翻弄された世界が未だに時を先後して経験する近代という歴史が日本国では行き着く先を後退して過去に行き着こうとする愚行である。その歴史推移の愚劣と稚拙に現政権は確信犯として事を進めている。それなら、こちらもそれに反撃する用意を整えよう。

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2014年8月 8日 (金)

ヒロシマの日に

 6日、毎日新聞の夕刊に〝広島平和宣言〟の全文、安倍晋三首相あいさつ全文、潘基文(バン キ ムン)国連事務総長メッセージ全文が掲載されていた。松井一美広島市長の宣言に見出しを付けるなら、「核兵器は絶対悪」とでもなるだろうか。「日本国憲法の崇高な平和主義のもとで69年間戦争をしなかった事実を重く受け止める必要があります」という一文は、そのまま集団的自衛権に関する安倍首相の一連の行動に痛烈な問いを突きつける。市長の文章は考え抜いた市長自らの文章のように読める。しかし首相のあいさつは恐らく官僚の作文を読んだだけのものだろう。血の通わぬ文章と読んだ。「その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります」の言や好し。しかし、無辜の日本人の言葉を失うしかない大殺戮を行った極悪非道の米国という国と為政者達には、お追従の媚び諂いしかできない。儀礼的なあいさつと国家の〝最高責任者〟としての行為の矛盾を恥じよ。

 2面には俳人の金子兜太氏へのインタビューがある。94歳になられた氏は戦争経験者として首相がゴリ押しした集団的自衛権行使容認の閣議決定を「ありゃ、何だい。安倍さんみたいに『死の現場』を知らねぇ連中に限って、『自衛だ』とか言って戦争に首を突っ込みたがるんだよなぁ・・・」と呆れている。かつては安倍首相の事を「どうしようもないおっちょこちょい」と一蹴した記事が想い起こされる。

 自他ともに代表作とされる句を引用させて頂き襟を正したい。

 水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る

 氏が生き延びて戦場を去る時の万感の悔しさを詠んだものだ。死の現場とは、戦地に海軍主計士官として赴任した「西太平洋トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島での経験)」と記者は記している。金子氏は、志願して手製の手投げ弾の爆発実験をかってでたタナベさんという人間扱いされなかった軍属の死ぬ光景を思い出す。「持っていたはずの手投げ弾が突然爆発した。体が宙を舞い、どさりと落ちた。右腕は吹き飛び、背中が割れていた。近くで実験を指導していた少尉も心臓に破片が突き刺さり、もがきながら死んだ」と記者に答えている。

 アカショウビンは金子氏の句と、この経験を読めば集団的自衛権容認問題の行き着くところが推察されるし事足りる。明日はナガサキだ。蒸し暑さと食欲激減の夏にヨロヨロになりながら更に熟考していきたい。

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2014年8月 6日 (水)

ヒロシマの光

 今年は5月に、たまたま仕事で広島市を再訪した。10数年ぶりだ。せっかくの機会なので翌日はホテルから原爆ドームまで行き公園と平和記念館を訪れた。天気に恵まれ公園をゆっくり歩き、5月の陽光をじっくり心身に染み込ませた。

 先日は囲碁新聞で橋本宇太郎九段の囲碁殿堂入りの記事も読んだ。囲碁ファンなら周知のことだろうが、橋本氏は第三期本因坊戦の対局中に被爆した。囲碁界では「原爆下の対局」として語り継がれている。このブログでは何度か書いているが、広島出身の映画監督・新藤兼人の幾つかの作品にも原爆は色濃く描出されている。

 公園を歩きながら、あの地獄が現出した時から植物は美しく枝葉を伸ばし人々は洋の東西を問わず訪れ談笑し、あるいは瞑目する。それは現在のフクシマが同時代の現在として存在している現実だ。人は忘却する。私も忘却する。しかし忘れてはならない体験と経験がある。それは一人の人間でも国の歴史でも同じである。
 愚かな政治家の無知に引き摺り回される人間の不幸は過去も現在も将来も同じだ。しかし、そこに意志の楔は打ち込まなければならない。パンドラの箱は空けられたが、それを封印するために刻苦するのもまた人の智慧である。それには意志の連鎖が必要だ。

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2014年8月 5日 (火)

河瀨直美監督の新作

 河瀨直美監督の新作「2つ目の窓」を観て来た。友人から頂いたチケットなのでメールで簡単な感想を送った。監督が自負する最高傑作と言うのは宣伝用の大風呂敷のようにも思った、と。とはいえ、監督の入魂の作品であることは 充分伝わる秀作だ。特にヒロインの母親が死に至る過程の奄美の土俗の描きかたに監督の思い入れが集約されていると思う。

 病で入院していたイサ(松田美由紀)が自宅に戻る。病状は日々悪くなる。その間の夫・徹(杉本哲太)や娘・杏子(吉永 淳)との愛に満ちたシーンも良いが圧巻は衰弱したイサの病床の周りに集まる近隣の人々の振る舞いである。イサは娘に「死ぬのは怖くないよ」と話す。それは強がりなどではない実に自然な言葉として演出されている。アカショウビンの亡き母も闘病の過程で、まったく同じ言葉を発した。そして臨終の前に奄美の古謡である「いきゅんなかな」を聴きたいと夫と娘に幽かな声で伝える。高名な唄者なのであろう男が見事な声と蛇皮線でそれを歌う。そのシーンはボーイ・ミーツ・ガール、ガール・ミーツ・ボーイの恋愛譚と共に、監督が細やかに演出した見事なシーンだ。松田の演技も、監督の演出も見事。死に逝く者の衰えた心身に最期の力を吹き込むように「いきゅんなかな」が見事に歌われる。標準語に訳すとタイトルは、去っていく恋人に「いってしまわれるのですね」という未練と残された者の哀感が込められた古謡である。その哀切がスクリーンに溢れた、監督の才覚が伝わるシーンだった。

 奄美生まれでも舞台の用安という集落は空港から近いけれども昨年の21年ぶりの帰省の時も通り過ぎるだけの土地だった。もっとも、その砂浜の美しさには改めて眼を瞠ったのだが。監督が捉える奄美の自然も台風の時の荒々しい高波を交えて良くメリハリが効いている。それはルーツがそうだとしても奈良で育ったよそ者である河瀨監督のヤマトンチュの視角は仕方のないところだ。しかしガジュマルの大木や奄美の自然は奄美で朽ち果てた画家・田中一村の見た風景でもある。そのことを改めて思い出させた作品だった。

 もう一点、指摘しておきたいのは、少年・少女の恋愛譚である。アカショウビンには既に興味の彼方の事であるが河瀨監督のモチーフには中心的な意味合いが込められていると思う、これまでの河瀨作品とは些か趣きを異にする物語性が強調されている。つまりこの恋愛譚を介して監督は奄美の土俗に分け入ったとアカショウビンには思われた。ヒロインの家族の家の壁には一村の作品も描かれている。それはともかく、多くの観客に興味があるであろう恋愛譚を意図的に監督は作品の機軸に据えた。しかし観る者の関心は様々である。還暦を過ぎたアカショウビンにはさほどの関心をそそらない。しかしヒロインの母親の死に至る過程は中高年、或いは河瀨監督にも軽視できない事実であろう。それが実に興味深かった。若い出演者には監督とスタッフの好みが反映されている。それはそれでよい。しかしアカショウビンのようなへそ曲りの観客には或る意味で作品の完成度を疎外する冗長を感じた。秀作といえど完全無欠ではありえない。監督の次の最高傑作に期待する。

 追記 パンフレットには奄美と縁の深かった島尾敏雄のご長男で写真家の伸三氏が寄稿しておられる。そのなかで、ヒロインが唄う「いきゅんなかな」は「良かったです」と書かれている。確かにそうだ。あの声の響きは繰り返し、繰り返し練習したものであろう。島で育った者には裏声にこめられる島唄の魂とでもいうものが直感的にわかる。そういうシーンだった。

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無調音楽と無調主義の可能性

 朝のテレビでシュニトケの作品を演奏している。シェーンベルクの12音階技法によるものだ。久しぶりにハイドンのピアノ・トリオを聴いている中でこのような作品を聴くと新たな愚想に誘われる。われわれアジアの民が18世紀から20世紀の西洋音楽に強い影響を受けている事実は思想的にはどのように理解することができるのだろうか、というような。見事な演奏をしているのは優れた日本人ヴァイオリニストとピアニストだ。

 たとえば西洋人からブルックナーは日本人には理解できないだろうと批評家の吉田秀和は問いかけられて反論しなかったのではなかったか。吉田のブルックナー理解は、その後に深まったかもしれぬが、そう問いかけた西洋人の問いに果たして本質的に回答はされたのか詳らかではない。マーラーに関しては先年文庫も発刊された。ブルックナーとマーラーの或る師弟関係は何を意味するかは別の主題だが、西洋人が当然の如く言い放つ西洋音楽の本質の如き作品を東洋の島国の民が理解できるのかどうか、という問いは音楽というジャンルを問わず現在も興味深い問いと思われる。

 そこで日本浪漫主義という思想を展開した保田與重郎の思想が果たして日本無調主義という思想的立場がありうるのか、という愚想に誘われるのだ。敗戦の日を前にナガサキ、ヒロシマの歴史に思いを馳せながら些か愚想に浸り新たな世界を模索してみよう。

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2014年8月 3日 (日)

岩間から染み出た水霊

 西脇順三郎の「旅人かへらず」の注釈をしておかねばならないという衝動に駆られる。西脇の作品はアカショウビンにとって賢治の作品と同じく生涯の通奏低音のごときものだからだ。西脇は自らを作品の中で旅人として「岩間から染み出た水霊」となぞらえる。ここにアカショウビンは激しく共振する。戦後69年の夏を往くためには西脇の作品が余生を生きるアカショウビンの水先案内である。

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