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2014年7月 2日 (水)

人権とプライバシー、昨今の世相について

 日本国憲法では基本的人権が保障されている。先のブログにクレームをつけてきたT君の論拠は特定の個人のプライバシーに関する情報の無断掲示ということになるだろう。しかし、そこには悪意という条件がなければならないだろう。悪意と善意という概念は法的定義にはそぐわないとしても、そこへの留意は言語化されるべきと心得る。

 昨今喋々されるのはインターネットの普及で日本国憲法に明記されている基本的人権だけでは保障されない〝新しい人権〟の定義だ。これには昨今の集団的自衛権の行使容認の意図的な憲法解釈問題も絡んでくるがそれはさておく。

 ブログで取上げた友人の奥様の件について電話で話したら一部の事実誤認だけでアカショウビンの記事には別に問題はないという話だった。彼が奥様の病を介して新たな信仰に目覚めたというのは実に言祝ぐべき事というのがアカショウビンの立場だ。話題のT君は、それを覚るのに50年かかったと強調した。その言や好しである。

 それはともかく、議論の錯綜の原因の一つはプライバシーという英語の日本語訳にも関すると思われる。それは個人情報とでも訳すのだろうか。それが公開されては人に不利益が生ずるものとも言えるかもしれない。そうなると不利益の範疇が定義されなければならない。クレームはアカショウビンがT君の「人権を軽く考えすぎている」というところだ。それは以前にも大学時代の気心のしれた友人たちの記事で生じた繊細と緻密さに欠けるアカショウビンの不徳の致すところと反省する。

 それにしても本日の毎日新聞の見出しは〝9条解釈を変更 戦後安保の大転換〟の太字が事の重大さを強調している。社説は〝歯止めは国民がかける〟というものだが、国家の暴走を止めるのは生易しいものではないのは国際情勢を管見すれば痛感できる。それが現政権には理解できない。それは歴史を俯瞰する視角の狭さによる短見でしかない。沖縄の戦後処理と日本国憲法の歴史的価値を愚弄する暴挙には次の国政選挙で意思を示すしかないのが忸怩たる思いに領される。しかし穏やかな日常を掻き乱す国政には断固異を唱えねばならぬ。

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