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2014年6月 3日 (火)

計算する思惟と省察する思惟

 ハイデッガーが1955年、大戦終結後10年目にユラ山脈の走るシュワーベンの一地方であるホイベルクの中の故郷の町メスキルヒで行った講演の中で論じている「放下(Gelassenheit)」とはドイツの古語である。それをハイデッガーは「物への関わりの内における放下」と使用した。言葉は時代の変遷で廃れていく。しかし改めてそこに新たな生命を吹き込むが人には出来る。「私共は諸々の技術的な対象物の避け難い使用ということに対して≪然り≫と言うことが出来る。そしてそれらの技術的な対象物が私共を独占せんと要求し、そのようにして私共の本質を歪曲し、混乱させ、遂には荒廃させることを、私共がそれらの対象物に拒否する限り、私共は同時に、≪否≫と言うことが出来る」と語っている。大戦を経験したハイデッガーがヒロシマとナガサキの地獄を介し思索した足跡を「原子力の時代」に生きる私たちは、〝計算する思惟〟ではなく、〝省察する思惟〟で深く熟考しなければならない日常を生きていることに迂闊であってはならない。

 翻訳者の辻村公一氏が講演の文言である次の用語に対する注釈も示唆に富むので引用し思索の手引きとする。翻訳では「密旨に対する開け」という箇所である。

 それは「秘密」という通常の言葉では、訳されないように思われるので、止むを得ずここでは「密旨」という言葉を仮に当てて置く。なお、Geheimnisには、われわれに親しいもの、何であるかは知られないが、われわれに身近なもの、というような意味も含まれている。この「密旨」は、ブルトマンの如き、「信仰」の立場に立てば、「神の言葉」となり、仏教に於けるが如き「自覚」の立場に立てば、「空」とか「法身」ということになるであろう。ハイデッガーは「思惟」つまり「問」の立場に立つが故に、「密旨」である。この三者の異同の内には、深い、冒すべからざる或る「筋道」が貫いている。

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