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2014年6月30日 (月)

昨今の世相と道楽

 新聞紙上では集団的自衛権の自・公が行使容認の大見出し。〝平和の党〟は支持母体の慎重論を振り切って政治判断に踏み切った。巷間喧しい戦争できる国への後退は歴史を反省しない愚行と確信する。沖縄を含め何時までアメリカのポチになっているのだと腸(はらわた)が煮えくり返る。

 毎日新聞は朝・夕刊でキャンペーンを張っている。先月の23日(月)夕刊では京都の鞍馬寺管主・信楽香仁さん(89)に取材した。「安倍さん 戦争への道は、あかんえ」の記事は首相に伝っているのかどうか。29日(日)の朝刊では東京大空襲を経験した早乙女勝元さん(82)にインタビューしている。自衛権ではなく戦闘権だという指摘はその通り。首相は堀を一つ一つ埋めて9条を変えたいのだ。明治以降の戦争国家から大戦で敗北し世界に冠たる日本国憲法の優位性を無にする悪行といってもよい。イラクやイランの内戦の苛酷さを我が国は既に幕末、維新で痛烈に経験している。歴史に学ばない近視眼的政治は正にアンポンタンである。与党にしがみつく公明党の無様も情けない。

 同じ紙面には「私の男」(熊切和嘉監督)がモスクワ映画祭でグランプリを獲得したという嬉しい記事も。日本映画では新藤兼人監督の「生きたい」(1999年)以来、15年ぶりの快挙だという。

 また米国のバレエコンクールで日本人女性が金・銀受賞の報道も。大和撫子たちの奮闘はサッカーばかりではない。クラシック音楽では日本人女性の大活躍は周知の通り。われわれ男どもも世界と伍していける力をつけなければならない。

 本日は道楽の音楽でビル・エヴァンスの10枚組みを買ってきた。1700円余で格安。政局とは裏腹にジャズ・ファンにはいい時代になったと思う。

 もう一つの道楽である囲碁では本日から本因坊戦第五局が始まった。カド番を凌いだ挑戦者の伊田篤史八段が更に踏ん張るか興味津々。白番伊田の54手目は昼食休憩をはさみ50分の熟慮の一手。明日はネットで観戦してみよう。国内戦もよいが国際戦でトップ・プロ達が韓国・中国の若手にコロコロ負かされるテイタラクは歯がゆいばかり。ご両人も国際戦で実績を出してもらいたいものだ。

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2014年6月22日 (日)

土着性

 ハイデッガーが「放下」(理想社 昭和38年12月10日、辻村公一訳)で述べていることの主題は〝土着性〟と〝故郷〟である。戦後、故郷から追放された多くの<ドイツ人>に関して故郷での講演の動機を探り、この主題を自らの思索の一貫として追求する。以下は旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めて引用させて頂く。

 「私共は一層思いを潜め、そして問います、すなわち、一体何がここに於いて生じているのであるか―故郷から追放された人達の許でも、又それにも劣らず、故郷に留まっている人達の許でも―と。

 答、現代人の土着性(この語は強調の読点が付されている)が最も内奥に於いて脅かされているのであると。そればかりではなく更に、土着性の喪失は、単に何か外的な周囲の事情とか運命とかに依って惹き起こされているだけではなく、又人々の投げ遣りな態度とか表面的な生活の仕方に基づいているだけではないのであります。土着性の喪失は、その内に私共すべてが生み入れられた時代、その時代の精神に由来しているのであります。(中略)そして私共は問います、私共の時代に於いて本当に起こっていることは一体何であろうか、私共の時代を特色づけていることは何であろうかと。」(p16)

 ★これに続き、ハイデッガーは、それを「原子時代」として原子爆弾を著しい目印とみなす。しかしここからが更なる問いを差し出すハイデッガーの思索の真骨頂である。

 「しかし、この目印は単に、事態の前景に存する目立った一つの目印にすぎないのであります。何故ならば、原子力が平和的な諸目的のためにも利用されるということは最早認識されているからであります。そのために、今日原子物理学やその技術家は到る処で、原子力の平和的利用を遠大な諸計算にもとづいて実現しようとしているのであります。(p17)

 ★そして18名のノーベル賞受賞たちが発した声明文を引用する。

 「≪科学―というのは、ここでは現代の自然科学のことであるが―それは人間を一層幸福なる生活に導いてゆく一つの道である≫と。」(p18)

 ★それをハイデッガーは、それは果たして省察から発した主張であろうか、と問う。

 そしてそれに満足してしまえば、「私共は、、現代という時代への省察から、この上もなく遠く隔てられているのであります。何故でしょうか。私共は気遣いつつ思いを潜めて追思することを忘れるからであります、すなわちその問とは、科学的技術が自然の中に諸々の新しいエネルギーを発見することが出来、それらを開発することが出来たというこのことは、一体何に基づいているのか、という問であります。

 このことは、次のことに基づいているのであります、すなわちそれは、既にここ数世紀以来、基準となる諸表象のすべてに亙って或る一つの顚覆的変動が進行中である、ということであります。その変動に依って人間が、今までとは別な或る一つの現実に移し置かれつつある、ということであります」(p18)。

 ★ここから戦後のハイデッガーの思索は「存在と時間」という主題を更に展開させていく。戦後10年の思索は「故郷を失った」人々と共に継続される。それはドイツ人とは海で隔てられた我々日本という島国の安穏さとは異なる苛烈な思索である。米国とソ連という万力の間で死活を問われたドイツという国の哲学教師としてヤスパースもハイデッガーも思索を深めた。それは洋の東西を問わない、我々日本人や中国、朝鮮半島の人々、広くはインドから東南アジアの敢えて言えばキリスト教と対峙する仏教国の民に促される思索である。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマは戦中、戦後で同じ次元で通底している。

 故郷とは何か?その回答は人それぞれの回答がある。先のブログで紹介した赤坂憲雄氏が、2011年4月21日に福島県南相馬市小高を訪れ島尾敏雄の人生に介在していった時にも、そのような想いが共振しただろうか。 赤坂(以下、敬称は略させて頂く)は文中、「島尾は奄美を仲立として『東北』を再発見していたのである」と述べている。島尾の「ヤポネシア論」は夙に有名だが、それはさておく。赤坂は東北の思想家には島尾の「どっちかというと異端の人が多い」という言葉を引く。島尾も、同郷の埴谷雄高も「異端の名にふさわしい作家ではなかったか」と赤坂は云う。

 ハイデッガーの云う〝土着性〟とこのような考察は無縁ではありえない。さらに熟考を重ねたい。

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2014年6月20日 (金)

不可解

 この1~2週間、体調が悪く、食欲が減退し体力の消耗甚だしい。下関出身の高校時代の友人Tに現状を話した。すると彼も自らの現状を話した。曰く、俺の女房は今年の3月に癌に罹り入院。腹中に拡がり手術も出来なく余命は半年から1年と医者から宣告された。そこで俺は面従腹背していた信仰に目覚めた。そして女房の回復を願った。お前と同じように食事ができなくなり、後は死ぬだけという状態。ところが突然食べるようになり医者も不思議がった。そして5月に何と退院できた。そんな事もあるから、お前もガンバレと彼は言った。その信仰も含めて、こちらの考えを話すと、お前の言うことはわからん、と下関弁で声を些か荒げた。夜も遅く長電話になり話は中途で終わった。

 そのような状態でも会社の仕事はしなければならない。昨日は仕事がらみで長い付き合いの人に会うと、こちらの顔色の悪さを見てだろう心配してくれた。

 食事が喉を通らなくなっても仕事をこなすためには少しでも食べなければならない。こちらはいつ死んでもいいくらいの達観が出来ているつもりでも身体は食べるよう要求しているようだ。昨日も何とか3食食べて帰宅。リクライニングシートに座り、借りてきたDVDで東映ヤクザ映画をウィスキーをちびちび飲みながら観た。「博打打ち外伝」(山下耕作監督)はマキノ雅弘監督と異なる作風で面白かった。他にも「人生劇場 飛車角と吉良常」(内田吐夢監督)、「日本女侠客伝 侠客芸者」(山下耕作監督)、「暖簾」(川島雄三監督)を。

 一昨日は「暖簾」を久しぶりに観て実に面白かった。映画好きの知人にも話した。改めて早世した川島の才覚が惜しまれた。長生きすれば黒沢、小津を超えたかもしれない。しかし将棋、囲碁にも人生にもタラレバはない。残された作品を楽しむしかない。「暖簾」は森繁久彌、山田五十鈴、乙羽信子が素晴らしい。その演技を引き出した川島の才覚を改めて讃えたい。「博打打ち外伝」は多くが脇役で好演する鶴田浩二を主役にして絶品。最近は借りてきたDVDを観ずに返すこともしばしば。しかし2本観られて幸い。ゆるゆると死に至るのであろうが、出来る限り未練なく彼岸に至りたい。

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2014年6月12日 (木)

戦後の思索

先の大戦後、ハイデッガーが「ヒューマニズムについて」として発刊された、フランス人ジャン・ボーフレに宛てた書簡で述べられた論考は繰り返し読んで啓発される。先のブログで紹介した故郷メスキリヒでの講演を読みながら再読しよう。

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2014年6月 3日 (火)

計算する思惟と省察する思惟

 ハイデッガーが1955年、大戦終結後10年目にユラ山脈の走るシュワーベンの一地方であるホイベルクの中の故郷の町メスキルヒで行った講演の中で論じている「放下(Gelassenheit)」とはドイツの古語である。それをハイデッガーは「物への関わりの内における放下」と使用した。言葉は時代の変遷で廃れていく。しかし改めてそこに新たな生命を吹き込むが人には出来る。「私共は諸々の技術的な対象物の避け難い使用ということに対して≪然り≫と言うことが出来る。そしてそれらの技術的な対象物が私共を独占せんと要求し、そのようにして私共の本質を歪曲し、混乱させ、遂には荒廃させることを、私共がそれらの対象物に拒否する限り、私共は同時に、≪否≫と言うことが出来る」と語っている。大戦を経験したハイデッガーがヒロシマとナガサキの地獄を介し思索した足跡を「原子力の時代」に生きる私たちは、〝計算する思惟〟ではなく、〝省察する思惟〟で深く熟考しなければならない日常を生きていることに迂闊であってはならない。

 翻訳者の辻村公一氏が講演の文言である次の用語に対する注釈も示唆に富むので引用し思索の手引きとする。翻訳では「密旨に対する開け」という箇所である。

 それは「秘密」という通常の言葉では、訳されないように思われるので、止むを得ずここでは「密旨」という言葉を仮に当てて置く。なお、Geheimnisには、われわれに親しいもの、何であるかは知られないが、われわれに身近なもの、というような意味も含まれている。この「密旨」は、ブルトマンの如き、「信仰」の立場に立てば、「神の言葉」となり、仏教に於けるが如き「自覚」の立場に立てば、「空」とか「法身」ということになるであろう。ハイデッガーは「思惟」つまり「問」の立場に立つが故に、「密旨」である。この三者の異同の内には、深い、冒すべからざる或る「筋道」が貫いている。

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