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2014年5月 5日 (月)

夜と霧

 高校生の頃に観て以来、封印してあったアラン・レネの「夜と霧」を40数年ぶりにレンタルDVDで観た。何と31分の短い作品だった事に驚く。2時間くらいの長尺だと思っていた。同じナチスの強制収容所アウシュヴイッツでの生き残りの男を取材して映像作品に仕立てたクロード・ランズマン監督の「ショアー」は9時間に及ぶ大作だった。だから勝手にそれなりの長さの作品と思い込んでいたのだろう。それにしても苛烈な映像に慄然となる。この衝撃的な映像が世界を震撼させた。ナチスの蛮行が明らかになる。それは人間の狂気が冷静な理性の元で粛々と行われた事に瞠目する。しかし戦後も米国はじめ世界は 原爆から水爆の開発で更に狂気の世界へ突っ走る。

 この狂気を読み解くのに内村鑑三やカール・バルト、ハイデガー、ヤスパースを読む抜かなければならないのだ。先ずは内村、バルト。それにヤスパースの「戦争の罪を問う」(1998年平凡社ライブラリー橋本文夫訳)でヤスパースが説く「形而上学的な罪」を再考しよう。ヤスパースは戦争の罪を四つに分けてドイツ人たちが負った責任を考える。すなわち、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上的な罪である。

 「私が他人の殺害を阻止するために命を投げ出さないで手をこまねいたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には、適切に理解することができない。このような事の行われた後でもまだ私が生きているということが、拭うことのできない罪となって私の上にかぶさるのである」(同書 p49~50)。

 また「形而上的な罪を最も深刻に意識するのは、ひとたび絶対的な境地に達し、しかもこの境地に達したがゆえに、、むしろこの絶対的心境をあらゆる人間に対して発動させていないという自己の無力さを感じさせられた人々である」(同書p51)

 そして更にヤスパースはそれをドイツ人の罪として分析し、問いかけ、回答し、理解しようと努める。この学生への講義として継続された思索は旧友ハイデッガーとの戦後の不仲ともなる。もっとも占領軍による戦犯探しからハイデッガーを守りはしたがハイデッガーへの不信は回復されることがなかった。この経緯は『ハイデガーとの対決』(紀伊國屋書店1999年6月9日)で詳しく辿ることができる。

 ハイデッガーとヤスパースを並行して読み解くことは今こそ必要である。ハイデッガーの哲学探究とナチスに加担した負い目はヤスパースの誠実と対極に立つものであるけれどハイデッガーの存在と時間への問いと思索やドイツ観念論、ニーチェとの対決は何ともスリリングである。そこに保田與重郎や内村鑑三、カール・バルトを絡めれば此の世で学び、問い、回答する面白さは時間が足りないほどだ。さらに考察を継続しよう。

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コメント

夜と霧。日本向けは編集されている。短いのはそのせいだ。

投稿: t | 2014年6月30日 (月) 午後 05時06分

tさんコメントありがとうございます。私が観直したのはレンタルショップのものです。高校生の頃に渋谷で観たのは編集前のものなのか今となっては定かでありません。オリジナルをご存知でしたらご教示願います。

投稿: アカショウビン | 2014年7月 1日 (火) 午前 07時02分

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