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2014年5月31日 (土)

省察する思惟

 先日、久しぶりに伊香保を訪れた。初めての宿だったが露天風呂も楽しんだ。いつも泊まる有名旅館と違って、こじんまりとして伊香保の昔の風情を醸し出していると思われる宿だった。若女将も気さくで好感がもてた。宴会後の「スーパー・コンパニオン」の活躍には閉口したけれども(笑)。酔って風呂に行くと硫黄泉の床がぬるぬる。危うく転倒しそうに。それほど泥酔していなくて幸い。ヨタヨタと歩き湯に浸かり露天風呂から星の煌く夜空も堪能した。

 この歳になると少年時代にはまった天体観望を想い出すのだ。望遠鏡で観た木星や土星(その年は輪が消える年だった)、月面は少年の心を遥か彼方の天体や銀河、星団の世界に思いを馳せさせた。天文学者になるという夢は叶わなかったが未だに映画で宇宙物には心ときめく。

 洋の西ではギリシアの思索者たちが夜空の不思議に思いを馳せ、東ではインド、中国、我が日本でも、その不可思議と神秘に幾人かの人間が究明の辛苦に生涯を費やした。その果てが現在に至る。聞けば日本のSF小説界は何やらゴタゴタしているらしい。アカショウビンは高校生の頃に観たS・キューブリックの「2001年 宇宙の旅」に驚愕し、クラークの小説やSF小説なるものにも馴染んだ。それは空想と妄想、愚想に浸る悦びとも言えた。

 それはともかく、科学の「進歩」は空想や妄想、愚想を現実のものとしてきた。しかし、人間の智慧には限界がある。それを自覚しない輩は恐らく道を誤る。ハイデッガーに言わせれば、考える人間には2種類あるという。計算する思惟と省察する思惟である。周りを見渡せば金儲けに奔走する計算する思惟がうようよしている。省察する思惟の沈思する追思の人は、彼自身の仕方で、彼自身の限界内で、歩むことの出来る道、と説いている。(「放下」)「原子力の時代」を生きる私たちは、この思惟に寄り添わなければならない。生活に汲々としていれば時に計算に走ってしまう。しかし、たまには夜空を眺め遥か異世界に思いを馳せエイリアンたちとの遭遇に妄想を走らせたいものだ。残り少ない時間に省察する思惟にどれだけ時間を費やせるか、そこがこれからの生の最重要事でなければならない。

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2014年5月20日 (火)

広島の原爆ドームと平和記念館を訪れる

 原爆ドームから記念館まで歩いていたら、途中に草野心平が1978年8月に訪れた時に記した石碑がある。

  天心の三日月の上に

  幻でない母と子の像

 これこそ永遠の平和の象徴

 童子よ母の愛につつまれて

 金のトランペット吹き鳴らせ

 天にも地にも透明な

 平和の調べ吹きおくれ

 どんな未来がこようとも

 頬っぺいっぱいふくらまし

 No・more・irosimaの

 金のトランペット吹き

 鳴らせ

 記念館に至る間には巨大な蘇鉄が植わっている。陽が高くなる前の空気は少し肌寒いくらいだ。生き残った被爆者の多くの人々があの記憶を思い出したくないと言う。何と当日の写真は3枚しかない。新聞記者が撮ったものという。映像は一切残っていない。

 最近の「美味(おい)しんぼ」論争でも同様に、そのような苛烈な記憶を脳裏から消し去りたいというのは先の大戦で殺し合いの現場を経験した兵士達にも同じだ。しかし人の業はそれを許さない。それは懊悩とも悶絶ともいった言葉では尽くせないが人が記述する言葉でその文を介して苛酷な体験が書き残せる。なぜなら、人という生き物は、あるいは存在は言葉という家に棲むからだ。そこで全精神を最大限に働かせて究極まで辿りつこうという意志と辛苦が不可欠なのだ。

 次に、峠 三吉の詩を写す。1963年8月6日 三宅一子

 ちちをかえせ ははをかえせ

 としよりをかえせこどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる

 にんげんをかえせ

 にんげんのあるかぎり

 くずれぬへいわを

 へいわをかえせ

 この叫びを心底から聴き取らねばならぬ。そこには聴く者の想像力が試される。

 snokeyさんのご教示で黒字を修正させて頂いた。ありがとうございます。心から感謝し、御礼申しあげます。

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2014年5月17日 (土)

広島で

  本日は広島で仕事。何年ぶりだろう。仕事で初めて訪れたのは10年近く前だ。業界の研修旅行で広島市内から江田島の旧海軍施設を見て瀬戸内海クルーズで小豆島まで行った。小豆島で、リメイクされた「二十四の瞳」のロケ地を訪れ感慨深かった。江田島では特攻の回天だったろうか、当時の機体を見て、その小ささに愕然とした。 仕事の途中とはいえ、原爆ドームを初めて訪れた。バスで立ち寄っただけだったから心残りだった。

  ホテルは駅の近くに取りたかったがどこも満室。土曜の夜は、どこのホテルも予約が早いらしい。10件近く電話したが、見つかったのは市内の路面電車の「中電前」近くのホテル。何と風呂がなくシャワーだけという。しかし、しかたなく予約した。まあ、安くて良かったが。駅近くのホテルであった宴会から路面電車でホテルまで行った。チェックインして小腹が空いたので近くのうどん屋へ。何やら後ろでスペイン語で話している。あちらの人かと思い振り返ると何と日本人ではないか。おそらく移住された方が里帰りされたのだろう。広島は沖縄と同じくらい南米に移住された方が多かった土地の筈だ。

  明日は原爆ドームを再訪し大阪経由で帰京する。

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2014年5月15日 (木)

ロマ書

  内村鑑三の〝悟り〟は、ロマ書3章23節から25節による、と自身が語り、それは新約と旧訳を結ぶ 急所である、と内村は悟った。旧約と新約の二つの軸で構成される楕円形の、聖書という書物の独自性を内村は強調する。しかし新訳の共同訳の文章はつまらない。内村は英文の聖書でそこへ到達した。その独自性こそが注目に値するのだ。

  サムライの子の内村が武士道を超えて聖書で悟りに達した独自性を富岡は強調する。多くの近代以降のキリスト教の信徒に対立して内村という存在が屹立する。それは先の大戦の戦中に日本の知識人たちが座談会で試みた〝近代の超克〟という主題に通底する。それは当時も解決されず現在まで持ち越されている、という富岡の指摘にアカショウビンは同意する。内村の著作を読むということは正にそのように同時に現在を読む、という事である。

  内村がロマ書から得たイエスの再臨は果たして現在どれほどの人に行われているのだろうか?アカショウビンも本日は、かつて読んだ箇所を再読するために出張先に聖書を携帯した。平明だが物足りない新共同訳の一文一文から内村の文を想起し内村の悟りに迫っていこう。

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2014年5月 6日 (火)

墓参り

 昨日、中学時代の同窓生T君の墓参りに茨城県の墓園を訪れた。上野からバスが出ているらしいが先に予約を申し込んだら満席。奥様の話では駅から周遊バスも出ているという。それなら返って安くつくと思い喜んで電車に。特急も出ているが普通電車で。車内では今年、携帯電話から切り替えたスマホでこのブログを書いたりして時を過ごした。駅を降りバス停に行くと運転手さんは墓園までは行かない、タクシーしかない、とおっしゃる。しかたなくタクシーに乗る。しかし駅から程近いと思ったら何と30分もかかった。しかも運転手は流石に実状をよく知っていて、閉園は午後5時という。駅に着いたのが4時20分。タクシーに乗ったのが4時半を過ぎていた。運転手さんは速度を上げて10分前に到着できた。しかし何と5千円以上かかった。

 それはともかく、墓に参じ礼拝した。昨年、帰郷する時に同行しようと久しぶりに電話をしたら奥様が2年半前に他界したと言う。愕然とした。20年以上前に他の友人と三人で飲んで自宅にころがりこみ泊まったことがあった。それ以来の電話だった。それが遅い訪れとして死を知った。忸怩たるものがあった。昨年、21年ぶりに帰郷し生まれ育った土地の空気と旧友たちとの再会を楽しんだ事を共に味わいたかった。その後悔でやっと昨日墓を訪ねたのである。

 それにしても駅から車で30分もかかる不便な土地を彼はなぜ選んだのか。その理由はあるていど見当はつく。しかし墓石も風景も物寂しいものだった。暫し瞑目しそそくさと墓を後にした。アカショウビンの墓は父母の眠る場所である。彼は奥様が建てられた自らの墓に眠る。故郷の墓には入れないしきたりなのだ。アカショウビンの父もそうだった。

 遅い死の知らせというものがある。彼の死がそうだった。アカショウビンの場合も遠い友人達に将来あり得る事だ。残された者たちは記憶や書かれた物、写真で故人を偲ぶ。余生といえどそのためにやらなければならないことは少なくない。粛々とその日のために生きるのだ。Tよ、安らかに眠れ。冥土の土産は持っていく。その時はゆっくり中学時代の思い出話やその後の互いの人生を語ろう。それを楽しみに娑婆の残りの時を自堕落な日常から這い上がり過ごしたいと思う。

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2014年5月 5日 (月)

夜と霧

 高校生の頃に観て以来、封印してあったアラン・レネの「夜と霧」を40数年ぶりにレンタルDVDで観た。何と31分の短い作品だった事に驚く。2時間くらいの長尺だと思っていた。同じナチスの強制収容所アウシュヴイッツでの生き残りの男を取材して映像作品に仕立てたクロード・ランズマン監督の「ショアー」は9時間に及ぶ大作だった。だから勝手にそれなりの長さの作品と思い込んでいたのだろう。それにしても苛烈な映像に慄然となる。この衝撃的な映像が世界を震撼させた。ナチスの蛮行が明らかになる。それは人間の狂気が冷静な理性の元で粛々と行われた事に瞠目する。しかし戦後も米国はじめ世界は 原爆から水爆の開発で更に狂気の世界へ突っ走る。

 この狂気を読み解くのに内村鑑三やカール・バルト、ハイデガー、ヤスパースを読む抜かなければならないのだ。先ずは内村、バルト。それにヤスパースの「戦争の罪を問う」(1998年平凡社ライブラリー橋本文夫訳)でヤスパースが説く「形而上学的な罪」を再考しよう。ヤスパースは戦争の罪を四つに分けてドイツ人たちが負った責任を考える。すなわち、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上的な罪である。

 「私が他人の殺害を阻止するために命を投げ出さないで手をこまねいたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には、適切に理解することができない。このような事の行われた後でもまだ私が生きているということが、拭うことのできない罪となって私の上にかぶさるのである」(同書 p49~50)。

 また「形而上的な罪を最も深刻に意識するのは、ひとたび絶対的な境地に達し、しかもこの境地に達したがゆえに、、むしろこの絶対的心境をあらゆる人間に対して発動させていないという自己の無力さを感じさせられた人々である」(同書p51)

 そして更にヤスパースはそれをドイツ人の罪として分析し、問いかけ、回答し、理解しようと努める。この学生への講義として継続された思索は旧友ハイデッガーとの戦後の不仲ともなる。もっとも占領軍による戦犯探しからハイデッガーを守りはしたがハイデッガーへの不信は回復されることがなかった。この経緯は『ハイデガーとの対決』(紀伊國屋書店1999年6月9日)で詳しく辿ることができる。

 ハイデッガーとヤスパースを並行して読み解くことは今こそ必要である。ハイデッガーの哲学探究とナチスに加担した負い目はヤスパースの誠実と対極に立つものであるけれどハイデッガーの存在と時間への問いと思索やドイツ観念論、ニーチェとの対決は何ともスリリングである。そこに保田與重郎や内村鑑三、カール・バルトを絡めれば此の世で学び、問い、回答する面白さは時間が足りないほどだ。さらに考察を継続しよう。

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2014年5月 1日 (木)

すこぶる

〝すこぶる〟という語を知ったのは中学生の頃に、親にねだって買ってもらった天体望遠鏡の使用説明書の文章だった。口径6㎝の屈折望遠鏡は愛読していた「天文ガイド」という月刊誌の広告で見て父親にねだった。説明書には「すこぶる使いやすい」とか「すこぶる目的の天体を導入しやすい」などという使い方をしていたので「とても~しやすい」という意味だとはわかったが教科書で読んだことがなかったので強く印象に残ったのだった。

 それはともかく、父は東京の髪結い店で働いていた姪っ子の様子を知るために母とアカショウビン兄弟を連れて家族旅行を思いついた。その時に望遠鏡メーカーを訪れたのだった。ところが、そこに製品はなく、紹介された百貨店まで足を運んだ。それを配達させればよいのにアカショウビンは説明書を読みたくて持ち帰ることにしてもらった。父は姪を宿泊した旅館に呼び出し近況を聞いた。アカショウビンの従姉にあたる彼女はぢゃぢゃ馬娘で高校生の頃は有名だった。それも社会に出れば多少は矯正されると父親は期待したのだろうが無理だったようだ。東京生活ではお決まりの恋愛沙汰があったが故郷の将来を嘱望されている男に嫁いだ。その後、京都で幸せな家庭を築いた。

 それはともかく、一家は当時の夜行列車で鹿児島まで戻り船で奄美に帰った。それからアカショウビンは将来、天文学者になる野望で勉学に勤しんだのだった。ところがそのうち心変わりし文学書など読むようになり堕落の道にはまり込んだ。

 ところで〝すこぶる〟である。実はいま読んでいる文庫本に、〝すこぶる〟がよく出てくるのだ。引用している内村鑑三の文章に。望遠鏡の説明書の作成者も明治か大正生まれだったのかもしれない。その文庫のあとは内村が激しく共感した同時代のカール・バルトの著作も読み解かなければならない。「ローマ書講解」は上巻を読み、その過激さに呆れて放ってあるが、内村のバルト論を介して改めて読み通してみよう。同時に当時のドイツの中でハイデッガーのバルト論なども追跡してみなければならないだろう。

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