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2014年4月28日 (月)

東北人について

 先月の毎日新聞3月29日号に掲載された赤坂憲雄氏の記事についての感想を継続して記しておきたい。赤坂(以下、敬称は略させて頂く)は、「島尾敏雄が『浅い東北』である相馬は知っているが、『奥の方』の南部や津軽には行ったことがなかった。そこで、とりたてて宮沢賢治に惹かれることはないが、賢治を通して『東北』を知りたくて、その文学の背景の土地を歩いたことがある、という」と記している。その頃、奄美に住んでいた島尾は「何か自分で持ちながら持て余していた東北性のようなもの」に気づかされたらしい。そして赤坂は、島尾は奄美を仲立ちとして、「東北」を再発見していたのである、と書く。

 山形の新庄出身のアカショウビンの同僚が、太宰も賢治も「エリートだったのよ」と話し、自分とは違う、と言った時にアカショウビンは、そうなの、とあえて話を展開させるのを止めた。しかし、それは太宰や賢治、島尾と同僚の<故郷>観の差異に過ぎないとも思われた。<故郷>という存在への人々の思いはそれぞれ異なるだろう。しかし、そこに何か共通の事柄が存在するのではないか?

 赤坂は島尾と九州の水俣出身の民俗学者、谷川健一とのやりとりを引用している。谷川は東北の「飢え、渇き、これは他にないですね」と述べ、島尾は、「なる程、主流になれない体質を東北人は持っている気がする。原敬にしても石原莞爾にしても」と応じる。

 この対談を通して赤坂は、「しかし、二人が直感的に摑みだしていたものは、東北の精神史の古層にしっかり届いていたかと思う。たしかに、東北の思想はその飢餓(ケガチ)を抜きにしては語ることがむづかしい」と書く。 

 飢餓とは、決して東北だけにあったものではない。しかし歴史的に日本の行政府から疎外されてきた沖縄や奄美、東北という土地に生きていた人々の記憶と経験から醸成されたものの共同体験というものが存するように思う。それは食生活や共同体を通して伝承される。アカショウビンは還暦を過ぎて、そのような視点を絡め奄美を新たに自分の中に再発見したい衝動に駆られる。6月には都内で郷里の人々との交流の機会もある。その時も<故郷>に関する新たな感慨が湧くはずだ。それを余生の楽しみにして娑婆での生を生きたい。

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2014年4月22日 (火)

山形へ

久しぶりに山形へ出張だ。関東は春らしい陽気だが日本海側の鶴岡は寒いだろうと思いコートを着用。何年ぶりだろう、鶴岡は。その時は藩校の致道舘を訪れ高山樗牛の遺品なども拝観した。本日は一泊するが再訪するゆとりはないだろう。新潟の空は雲っている。何年か前に仕事で特急電車に乗っている時、高校の同窓生の訃報を知った。動脈瘤破裂で急死だった。その前に都内のスナックでも旧友たちと久しぶりに痛飲した時は元気だっただけにショックだった。人の一生は、あっけないものだと改めて実感し自戒した。アカショウビンも還暦を前に最後になるかもしれないと覚悟を決めて昨年は21年ぶりに帰郷したのだ。電車は新潟平野を北上する。そのうち日本海が見えてくるだろう。昔の人は歩いて江戸や上方まで移動したのだ。そこを特急電車で私は景色を眺めなからお気楽に時を過ごしている。このところ読んでいる内村鑑三論が面白い。このキリスト者は実に興味深くこちらを刺激する。その感想も記しておかねばならない。

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2014年4月20日 (日)

アンジェイ・ワイダ監督の「ワレサ 連帯の男」を観る

 アンジェイ・ワイダ監督の最新作「ワレサ 連帯の男(2013年)」を観てきた。岩波ホールの最終回に間に合った。客の入りは半分足らず。おかげで良い席でじっくり観られたのは幸い。当時の実写映像を巧みに使いリアリティーを醸し出しているのはさすがだ。出世作の「地下水道」(1956年)、「灰とダイヤモンド」(1958年)から現在まで長寿を生き祖国の歴史を映像に仕上げてきた仕事を同時代で確認できることは実にありがたく敬服するばかりだ。

 1968年の「プラハの春」から東欧は共産主義・ソ連の強大な力に圧迫され続けた。1970年12月12日から17日まで食料品の値上げでバルト海沿岸の諸都市で労働者が抗議し軍と流血の政治闘争が繰り広げられた。ポーランドでは1976年6月24日に同様の事件が起き、多数の逮捕者が出た。その間の経緯をワイダは「大理石の男」(1977年)で作品化した。日本で公開されたのは1980年。その頃に独立自主管理労組「連帯」がワレサを委員長に発足している。

 その頃、日本語にも訳されたオリアナ・ファラチの「ワルシャワは訴える クレムリンを狂気にかりたてる男」が「文藝春秋」1981年6月業に掲載された。ワイダ作品は、このオリアナのワレサへのインタビューの様子を元に展開される。「鉄の男」が公開されたのは1981年5月。「連帯」の代表団が日本を訪問した年だ。その年の12月にワレサは国家から軟禁され、ワイダはポーランド映画協会長の座を追われる。

 作品は1990年に統一労働者党(共産党)が解党しワレサが大統領に就任するまでをもって終わる。その間、ワイダはワレサと袂を分かつ。しかしワレサという、妻や子供達を愛した一人の電気工が労働者の先頭に立ち、したたかに国家権力と闘った姿をワイダは見事に描いている。ポーランド現代史3部作の完結篇だが、もう一作観たい。我が新藤兼人監督の歳まで長生きすれば3作は制作出来る筈だ。「悪霊」に続く「白痴」「カラマーゾフの兄弟」のドストエフスキー3部作はどうだろう。

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河瀨直美監督の新作

 河瀨直美監督が奄美を舞台に「2つ目の窓」という新作を発表したという。多くの作品が、棲まわれている奈良が舞台の監督がなぜ奄美なのかコメントだけでは詳らかではない。しかし幾つかのカットを見ると田中一村の作品にも監督は触発されていると思われる。

 昨年、久しぶりに帰省した時は二泊三日で一村の終の棲家と先祖の墓参りくらいしか訪れられなかったのは残念だった。それが河瀨作品で改めて故郷の映像が観られることを楽しみにしたい。河瀨作品は「殯の森」以来だ。カンヌでの受賞にも関わらず監督の作品が日本の映画ファンに広く知られているとは思われない。それは観客に媚びた作品ではないことに起因するだろう。

 映画という映像表現は撮影する側が面白がる側面と観客を意識して媚びる側面がある。いわゆるドキュメンタリーとエンターテイメントなど幾つかのジャンル分けができるからだ。河瀨作品がカンヌで評価されたのは、その何れでもないジャンルを表現したからではないかと思われる。物語が理解出来なくても映像の力が何かを語りかける。そういう作品にカンヌの審査員たちは反応したのだろう。映画でアカショウビンが刺激されるのもそういう作品だ。日本公開は7月26日という。楽しみだ。

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2014年4月17日 (木)

宮沢トシのこと

 毎日新聞の朝刊に〝平塚らいてう「太陽」の萌芽〟の見出しで記事が書かれている。副見出しの〝宮沢賢治の妹も 厳しい自己探求〟の文字に刮目した。アカショウビンには平塚らいてうよりも賢治の妹トシの筆跡とその内容が興味深かった。トシとは賢治の「永訣の朝」に記された早世した妹である。

 記事によると、らいてうは3回生、トシは15回生と記されている。一回りの年齢さがあるにも関わらず当時の若者にも共通する新たな環境で学問することの喜びと気概を痛感する。それは多くの人々が経験するものだろう。トシは自己調書カードの性格欄に「意志薄弱、陰鬱、消極的、其他大抵ノ短所ヲ具有ス 正直」と記している。また入学時の決心に「吾ヲシテ最モ意義アル生活ヲナサシメント欲ス」とも。記者は「きちょうめんな筆跡からも、内省的な人柄がしのばれる」と書いている。しかしアカショウビンは「其他大抵ノ短所ヲ具有ス 正直」の一行にトシのユーモアを読み取る。

 賢治の「永訣の朝」は保田與重郎的に言えば慟哭するしかない作品である。先の日記でも赤坂氏の論説を引いたように或る〝東北人〟に共通する典型があるように思う。それはよそ者の思い込みかもしれない。しかし赤坂氏が指摘するように島尾敏雄や埴谷雄高に共通する異端への意志をアカショウビンは賢治や島尾、埴谷の作品を介して実感する。埴谷にとってそれは台湾かもしれないが、島尾や賢治には福島と岩手の故郷だろう。アカショウビンには昨年久しぶりに訪れた奄美である。

 トシの名を久しぶりに眼にし、「永訣の朝」で死にゆく妹の姿を活写した賢治の詩を改めて想起した。24年の生涯は世間常識からすれば何と短いあはれな人生だったことか、ということになる。しかし寿命とは人それぞれ異なっても長いも短いもないと思われる。娑婆での生は人それぞれで充足するしかないのではなかろうか。そこには、それぞれの喜怒哀楽がある。還暦を過ぎてアカショウビンには既に余生である。平均寿命などどうでもよい。賢治やトシからすれば無駄に余計に生き過ぎたとも言える。しかし日々新たな気持で娑婆の生は生きねばならないだろう。早世した人々の残念の思いを何らかの形で悼むためにも。それは既に此の世を去った縁あった人々を新たに想起することである。日常の怠惰をたまには反省する。それはこの記事のような文字を介してでもある。

 「永訣の朝」の或る兄妹の姿は此の世に少なからずあるだろう。それは娑婆の苛酷な時間とも解せられる。しかし言うまでもなく喜怒哀楽と集約できる時間でもある。

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2014年4月11日 (金)

故郷とは何か?

 21年ぶりに故郷の奄美に帰ったのは昨年10月末である。還暦同窓会という案内で、それは奄美が米国の信託統治から解放され〝クリスマスプレゼント〟として日本国に返還されてから60年が経過した節目の年だった。定年の早期退職を促され失業中で求職中の経済的困難と体調不良のうちで決断した。故郷の土を踏むのは父の葬儀以来だった。その状況はブログにも書いたので繰り返さない。

 故郷とは何か?その回答は人それぞれにあるだろう。そのような問いを発するきっかけになるのは3月29日(土)の毎日新聞に掲載された赤坂憲雄氏の文章を読んだからである。赤坂氏は2011年4月21日に福島県南相馬市小高を訪れている。それは数年前に〝島尾敏雄論〟を書くためであったらしい。島尾敏雄という、妻のミホさんの故郷である奄美にも住んだことのある小説家は小高の生まれである。

 島尾敏雄(以下、敬称は略させて頂く)が精神を蝕まれたミホさんの治療を兼ねて奄美に棲んでいた頃にアカショウビンは島尾が勤めていた図書館で中学生の頃に島尾の姿も見た。そのような関心は、担任の教師が県立図書館には「有名な小説家が勤めている」と話したことが因だった。母親から聞いた先の大戦の体験を介して〝戦中派〟の作家の作品には、その後、少しずつ接していった。都内で学生の頃か社会人になった頃か総武線の社内で島尾と思しき中年男の姿を垣間見たこともある。

 そのような中学生の頃から青年期にかけて、島尾という〝戦中派〟の作家は吉本隆明との親交も介して興味を持ち続けてきた。昨年の帰省のときには島尾ゆかりの加計呂麻島も訪れたかったが2泊3日の短期間では先祖の墓参りをするのがやっとで叶わなかった。

 赤坂は文中、「島尾は奄美を仲立として『東北』を再発見していたのである」と述べている。島尾の「ヤポネシア論」は夙に有名だが、それはさておく。赤坂は東北の思想家には島尾の「どっちかというと異端の人が多い」という言葉を引く。島尾も、同郷の埴谷雄高も「異端の名にふさわしい作家ではなかったか」と赤坂は云う。

 この赤坂の東北論、奄美論を介しての作家たちの作品は興味深い。さらに些か熟考を重ねていきたい。

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