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2014年3月 2日 (日)

シェリングとドイツ観念論に関して

 久しく中断していたハイデッガーを読み継ごう。数年前に読んだ「シェリング講義」(木田元・迫田健一訳 新書館)でシェリングを読み直し自らの存在論を展開するハイデッガーを読むことは新たな興味を掻き立てた。体調不良の中で残された時間も少ないことを実感しハイデッガーの思索の襞と深淵に分け入ることは娑婆での生に何らかの励みと力を付与してくれるだろう。先日、図書館から「ドイツ観念論の形而上学(シェリング)」(創文社 2010年10月5日)を借りてきた。これを読み上げ、「シェリングの『人間的自由の本質について』」を「シェリング講義」と照らし合わす。そこでハイデッガーがシェリングを介して繰り広げる「存在と時間」(創文社版では「有と時」だが)以降の研鑽と新たな展開を熟考したい。ハイデッガーは、この書で「存在と時間」以降に加えられた同書批判にも鋭く応じている。そこから当時のドイツ知識人たちの姿も管見できる。

 訳者の菅原潤氏は、「シェリング講義」は1936年夏学期の講義で、この原書に付録とされている部分をあえて訳出しなかったと訳者たちは記しているが、その箇所が同書であると後記の中で記されている。ここに訳された講義は1941年3学期のフライブルク講義その1と1941年夏学期のフライブルクゼミナールがギュンター・ゾイボルト氏の編集によって世に出たものだ。1990年晩夏に書かれた同氏の編集後記はさておき、ハイデッガーの論述を辿り、読み進めながら感想も記し読解を少しでも深めるようにしよう。

 アカショウビンが関心をもつのはシェリングが説く〝悪〟についてだ。ハイデッガーはナチに席巻される当時のドイツで未完成の「存在と時間」以降の思索と熟考を1936年の講義でも本書でも繰り広げている。1809年に世に出たシェリングの『人間的自由の本質およびこれに関する諸対象というものに関する哲学研究』は、『人間的自由の本質』(西谷啓治訳 1951年版を1975年に改版 岩波文庫)となって日本語で読める。そこには〝悪の一般的始原と発生(自由の実質的本質)〟以降の〝悪〟論が展開されている。ハイデッガーが親鸞の著作・思想に少なからぬ関心を示したという話もシェリングを介して現在に継承されるべき論点が期待できるように思う。

 ハイデッガーはシェリングの「哲学から弁証法的原理が、つまりまさしく分裂するがゆえに有機的に秩序づけ形態化する悟性が、その悟性を方向づける原像ともども引き抜かれ、もはや哲学が自らのうちに尺度も基準も持たなくなれば、哲学に唯一残されるのは確かに、自らを史実的に方向づけようと試みること、伝承を[・・・・・]源泉と測鉛に見なすことだけである。それは、われわれの手許にある詩文を一切の国々の文芸上の知識で基礎づけようとし、哲学に対してさえ歴史的規範と基礎を求めようと思う時流である」という文言を引く。さらに「直接的認識の可能性が与えられれば、史実のみを頼りにする時代は終わる。われわれには資料に書かれたあらゆるものよりも古い顕現である自然がある」(同書p5~6)を引用して、ハイデッガーは「こうした事態はまさしくわれわれの時代にも当てはまるのではないか」と記している。

 それは同時にわれわれが生きるこの時代にもいえるのではないか。それがハイデッガーを読み続けるアカショウビンの問いと関心である。

 

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