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2014年1月 5日 (日)

繰り返しと生成

 かつて俳人は、去年今年貫く棒のごときもの、と詠んだ。棒とは何か?それはそれなりの熟慮を要する。それはさておく。秋から冬になり年を越す。そこに人間達は何事かの節目をつけ家族を介し世相を介し仏教用語で言えば娑婆世界での生き方に暫し考えを巡らせる。

 アカショウビンも同様である。昨年は21年ぶりに故郷の中学の同窓会に出席し新たな出会いとご先祖の墓参りもした。少年時代とはかなり変貌した同級生達と故郷の風景は時の移り変わりに暫し感慨新ただった。しかし日常に戻れば娑婆での身過ぎ世過ぎである。日々の労働に汲々としながら時は過ぎる。日本人の寿命は世界でもトップクラスである。それは医療体制の充実と食生活によるところが多いだろう。都道府県の長寿地では沖縄から長野に代わったようだが風土と食生活によるところは多いと思われる。

 それはともかく、新年というものは昔なら50年も生きれば起承転結を慮り死を意識した筈だ。人生80年に平均寿命は延びたといっても体力の衰えは古人ともそれほど異なるものではあるまい。アカショウビンも足腰は急激に弱っている。元々食は細いほうだが昨年の猛暑と失職による自堕落な生活で体力は更に衰えた。古人でなくとも人生の収束に向けて新たな覚悟で臨まねばならないことを自覚する。しかし所詮おろかな人間である。日常の煩瑣に流され怠惰な日常に身を任せる。出家でもすれば良いのだろうが、その覚悟もない。俗世で溺れ死ぬことだけは予測できる。しかし娑婆を生きた痕跡だけは少しくらい残して世を去りたい。将棋、囲碁の対局でいえば、持ち時間の残り時間は少ない。既に勝負は終盤戦で死力を尽くさなければならない局面だ。全身全霊を込めた集中力を搾り出さねばならない時だ。

 人間という生き物の日常とは繰り返しと反復の中に新たな生成の喜びと陳腐に耐えることだ。多くの人間は日常の陳腐に埋没し日々を送る。一部の人間が生成の喜びを見い出し時に深い思索を凝らし何事かの啓示に至り或る非日常とでもいう時を生きる。多くは、それが持続することはない。俗人は通俗を生きる。しかし遠からぬ死を想定し日常を生きる時に何事かの覚悟を自らの通俗に禅で言えば痛棒をくらわすことは人間という生き物の或る可能性を齎すかもしれない。

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