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2014年1月22日 (水)

谷川A級陥落

 将棋の谷川浩司九段がA級を陥落した。アカショウビンが将棋に入れ込んでいた頃の指南書は加藤一二三元名人の(以下敬称は略させて頂く)矢倉戦法の著書と加藤の棋譜だった。それで秋葉原と新宿の道場で二段を取得した。加藤の著書を熟読した成果だ。秋葉原の道場で昇段祝いに故・真部一男九段に二枚落ち(飛車・角を落とす)で対戦して頂いた。加藤の駒落ち定跡を一夜漬けで読み臨んだが完敗だった。プロの実力を思い知らされた。

 加藤を負かして谷川は名人になった。その谷川が32期在籍したA級を陥落した。加藤・谷川のファンであるアカショウビンにとって驚愕するしかない。米長邦雄亡き跡の将棋界の顔となった谷川もトップクラスの熾烈な戦いに突き落とされる。それが勝負の世界の厳しさであることは素人には理解されないだろう。しかし、それが苛酷な現実であり事実である。それは他の棋士にとっても他人事ではない。勝負師とは何とも苛烈な生業である。アカショウビンは単なる将棋ファンでよかった。しかし身過ぎ世過ぎは世の習いである。世界は違っても娑婆の生死は、それぞれだ。アカショウビンも幾らあるか知らぬ余生を生きている。棋士たちの棋譜を楽しみながら。

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2014年1月19日 (日)

言霊と音楽と存在

 朝の早いアカショウビンにとって明け方の時は貴重である。時にNHKのラジオを聴く。今朝は歌人の岡野弘彦氏。実に興味深い氏の語りが聴けた。氏は折口信夫の愛弟子で先の大戦を経験された、いわゆる戦中派である。戦後の氏の作品や生き様は新聞やご著書で管見している。歌人として詩人として話し書かれている作品や言葉は氏の魂が吹き込まれている言霊というものである。氏は〝あかとき〟が作品を作られる時だと話された。〝あかとき〟とは古語でいう夜明け前である。漢字では明時〝あかつき〟とも言う。〝あかときくだち〟とは夜が更けていってあけがたちかくなる頃である。

 一日で此の時は或る人々には貴重な時である。母が亡くなる前に東の空に向かって手を合わせて祈っていた姿を思い出す。アカショウビンにとっても好きな音楽作品を聴くときは此の10年余、この時である。

 今朝はマイルス・デイビスが1964年にニューヨークで録音した「マイファニー・バレンタイン」を聴いた。50年代のバンドから新たに結成した面子の演奏に挑発、刺激される。ジョージ・コールマンのテナーは時に冗長で退屈だが早世したドラムスのトニー・ウィリアムス、ベースのロン・カーター、ピアノのハービー・ハンコックらがマイルスにインスパイアされて丁々発止の演奏を繰り広げる。時間の制約もあるのだろう、最後の〝アイ・ソート・アバウト・ユー〟で唐突に終わるのが残念だが、タイトル曲から〝オール・オブ・ユー〟、〝星影のステラ〟、〝オール・ブルース〟と楽しめた。観客も時に良く反応して拍手を送る。ライブならではである。そこでバンドを挑発するのはマイルスの一吹きである。その深い響きは録音といえど聴く者にも伝わる。トニー亡きあとハービーもロンも健在である。今や中高年の熟練の時を満喫していることであろう。あかときの貴重な時を彼らの録音を聴いて過ごせたことを言祝ぎたい。それは此のブログの主題に則って言えば存在の音を聴けたということである。存在は言葉という家に棲むと説くハイデガーの言葉を想起する。その顰に倣えば優れた演奏は、その中に存在を有していると思うのだ。言霊が存在を有しているように。

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2014年1月16日 (木)

身過ぎ世過ぎ

 長野県の飯田市内で行われた業界組合の新年会に出席して高速バスで帰る途中。夜汽車ならぬ夜バスだ。中天にかかる月夜の空が美しい。老舗の割烹店の料理は実に美味しかったが明日の仕事のため約30分で切り上げて途中で退出。飯田駅前からの最終バスで新宿に戻る。前職を定年で退いたもののお手伝いでアルバイトだ。

 左手に夜の諏訪湖。バスは高速道路をひた走る。娑婆での余生は身過ぎ世過ぎである。せいぜい好きな音楽や書物を聴き読みながら過したいが仕事に追い立てられ思うようにもいかない。この時期は新年会であちらこちらと飛び歩く。景気は回復しつつあるといっても大手企業だけの話。日本を支える中小零細企業にその恩恵は未だ回ってきているようには見えない。仕事があるだけ良いという状況はいつ回復するのか。消費税増税で4月から購買動向は冷え込むだろう。その後のV字回復はあるのか。その前に求職活動で新たな職にも就かねばならぬ。お一人様の老後は凌ぎである。せいぜい陳腐な日常に映画や音楽、書物で潤いを齎し生き抜きたいが昨夏の猛暑以来、体力の消耗は如何ともし難い。アルコールをひかえ食事に留意し体力の回復に努めよう。

 先日は携帯電話をスマホに代え、ノートパソコンもタブレットにした。身過ぎ世過ぎは世の中の変化にも対応しなければならない。

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2014年1月12日 (日)

グルダのベートーヴェン

 若い頃に買ったアマデオ盤のベートーヴェン・ソナタ全集は、アカショウビンほどに西洋古典音楽に関心のない友人のN君にベートーヴェンを聴くときに損はないから、と説得し格安で売却した。その後、N君がどれほどグルダの録音を介してベートーヴェンの世界に分け入ったから詳らかにしない。しかし、その後も流通過程で格安になったCD盤にはホルストシュタインがウィーン・フィルを指揮したグルダと演奏したピアノ協奏曲もあったので喜び勇んで購入した。

 それを先日から衝動的に聴き直して何事か書き付けたくなった。

 今、聴いているのは作品22の第11番変ロ長調ソナタ。快活なテンポはグルダらしい解釈だ。それが、かなり速めに感じるのはバックハウスなどの録音演奏がアカショウビンには妥当なテンポとして染み込んでいるからだろう。次は作品26のヘ長調ソナタ。このアンダンテ・コン・ヴァリアゾーニと指定された1楽章は出だしは過不足のないテンポだ。2楽章はアレグロ・モルトと指定されたスケルツォ。その快活なテンポはグルダの特色が強調されない。3楽章のマーチ・フュネーブルも。4楽章のアレグロと指定されたテンポには、いささかグルダらしさが溢れている。バックハウスと違ってグルダの解釈は、やはりこのテンポの快活さにあるのだ、ということを知らされる。

 13番の変ホ長調ソナタの1楽章は何とも穏やか。ベートーヴェンの、激しい気性という通説の通俗性を覆す静謐さに心安らぐ。続く第3楽章アダージォ コン エスプレッシオーネも同様だ。ソナタ形式という制約の内で4楽章は進行する。しかしベートーヴェンという音楽家の内面の奥底は此の世で聴き取る稀少な崇高として聴き取らねばならない存在の音、律動としてアカショウビンには思われる。名曲とされる「月光」も、そういったベートーヴェンという革命的な音楽家の内面として聴き取られる。それはグルダでもバックハウスでも誰でもが正面しなければならないベートーヴェンという人間の貴重と深淵だ。

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2014年1月10日 (金)

至高の練度

 〝至高の練度〟とは吉田満氏(以下、敬称は略させて頂く)が「戦艦大和ノ最期」の結語で書いた用語だが、今朝のテレビ番組で以前に見たメナヒム・プレスラーのドビュッシーの「版画」とシューベルトの変ロ長調(D960)の日本でのリサイタルを見て、その言葉を想起した。この演奏は驚くべき境地に達していると再び聴きながら実感する。老齢のピアニストが達する境地というものがあるのだ。それは演奏技術を超えて達せられる境地というものだろう。

 朝は久しぶりにグルダのベートーヴェンを聴いて喝を入れた。全盛期のグルダの演奏として面白い。よく指が動くのはピアニストとして必要条件だろうが十分条件ではない。それでもグルダの演奏が面白いのは、その十分条件というものを幾らか充足しているのではないかと思わせられるからだ。それはジャズにも強い関心を示したことで晩年のグルダの来日公演などが思い出される。しかし、〝至高の練度〟とは吉田が経験し九死に一生を得た実戦に対する最高の誇りと賞賛の言葉である。それは生半可な言葉ではない。

 プレスナー氏の演奏を聴いて、そこには或る崇高な境地が感じられる。それは実に貴重な時だ。シューベルト晩年の秀作はピアニストにとって特別な作品と思われる。そこで運指の練達は必要条件に過ぎない。歳を重ねて表現される境地と表現がある。プレスナー氏はボザール・トリオでハイドンのピアノ・トリオを録音している。それも改めて聴きながら新春に名匠の演奏の深みを少しでも堪能したい。

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2014年1月 5日 (日)

繰り返しと生成

 かつて俳人は、去年今年貫く棒のごときもの、と詠んだ。棒とは何か?それはそれなりの熟慮を要する。それはさておく。秋から冬になり年を越す。そこに人間達は何事かの節目をつけ家族を介し世相を介し仏教用語で言えば娑婆世界での生き方に暫し考えを巡らせる。

 アカショウビンも同様である。昨年は21年ぶりに故郷の中学の同窓会に出席し新たな出会いとご先祖の墓参りもした。少年時代とはかなり変貌した同級生達と故郷の風景は時の移り変わりに暫し感慨新ただった。しかし日常に戻れば娑婆での身過ぎ世過ぎである。日々の労働に汲々としながら時は過ぎる。日本人の寿命は世界でもトップクラスである。それは医療体制の充実と食生活によるところが多いだろう。都道府県の長寿地では沖縄から長野に代わったようだが風土と食生活によるところは多いと思われる。

 それはともかく、新年というものは昔なら50年も生きれば起承転結を慮り死を意識した筈だ。人生80年に平均寿命は延びたといっても体力の衰えは古人ともそれほど異なるものではあるまい。アカショウビンも足腰は急激に弱っている。元々食は細いほうだが昨年の猛暑と失職による自堕落な生活で体力は更に衰えた。古人でなくとも人生の収束に向けて新たな覚悟で臨まねばならないことを自覚する。しかし所詮おろかな人間である。日常の煩瑣に流され怠惰な日常に身を任せる。出家でもすれば良いのだろうが、その覚悟もない。俗世で溺れ死ぬことだけは予測できる。しかし娑婆を生きた痕跡だけは少しくらい残して世を去りたい。将棋、囲碁の対局でいえば、持ち時間の残り時間は少ない。既に勝負は終盤戦で死力を尽くさなければならない局面だ。全身全霊を込めた集中力を搾り出さねばならない時だ。

 人間という生き物の日常とは繰り返しと反復の中に新たな生成の喜びと陳腐に耐えることだ。多くの人間は日常の陳腐に埋没し日々を送る。一部の人間が生成の喜びを見い出し時に深い思索を凝らし何事かの啓示に至り或る非日常とでもいう時を生きる。多くは、それが持続することはない。俗人は通俗を生きる。しかし遠からぬ死を想定し日常を生きる時に何事かの覚悟を自らの通俗に禅で言えば痛棒をくらわすことは人間という生き物の或る可能性を齎すかもしれない。

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