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2013年12月10日 (火)

「ハンナ・アーレント」を観る

 昨夜、岩波ホールで好評の「ハンナ・アーレント」(2012年 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を観てきた。午後2時過ぎに行き午後7時の回を予約した。仕事を終えて20分前に会場に着くと既に満席。異常な人気だ。見終えて、なぜこのような地味な作品に観客が殺到するのか不可解だった。観客は中高年が多いが若い人もいる。最後のクレジットが終わり静かに退席する観客と共にエレベーターで1階まで降り秋葉原まで歩き帰宅した。
 それにしても、このような作品に関心が集まるというのも昨今の我が国の政治情勢と無縁でないことは了解する。戦後ドイツの復興と戦中ののユダヤ人虐殺問題が根深くドイツに影響していることは先般の安倍政権の閣僚である麻生のアホ発言でも了解できる事だからだ。特定秘密保護法の反対デモに参加した人々にも、この作品を観て行動した方々もいるだろう。
 そのように、この作品の持つメッセージは欧州以外の各国に伝わっていることは間違いない。ナチに同調したハイデッガーの教え子のユダヤ人であるハンナ・アーレントが『全体主義の起源』でセンセーショナルな物議をかもした時期以降の彼女の動向を作品は巧みに構成している。全体を覆うトーンは静謐といえるもので時にハンナが激高する場面はあるが監督の知的な冷静さが作品の隅々まで行き渡っている。
 この作品が日本の観客にどのように関心を持たれているのか観終わっても不明だが現在の政治状況と無関係でないことはわかる。
  アカショウビンはハンナの読者ではないがハイデッガーは、この20数年、断続的に「存在と時間」はじめ講義録、講演記録を読み継いでいる。その中で、戦前から戦中、戦後のハイデッガーの思索は聴講生だったハンナ・アーレントやエマニュエル・レヴィナス、ミシェル・フーコー、我が国では木田元氏、吉本隆明氏の著作を通してハイデッガーの影響が濃淡はあれど継続していることを興味深く思うのである。
 作品はハンナとハイデッガーの恋愛も絡めながら、ニューヨーカー誌に連載した彼女のアイヒマン裁判の傍聴記事が多くのユダヤ人から脅迫的な反響を生じる様子を中心に物語は進行する。その過程は監督の解釈だが、それがドイツや日本で評価を受けているということだろう。わが国では開高 健が同裁判を聴取している。それは読み直して感想を書くつもりだ。
 しかし多くの観客はハンナやハイデッガーの著作に接したことがない人も多いと思われる。そこで作品のメッセージは何がどのように受け止められているのか?それは、それぞれの観客に聞かなければわからない。アカショウビンにとって、それは改めてハンナやハイデッガーの著作を熟読することである。そこから恐らく現在の政治・文化状況に発言を督促される機会が生ずると思われる。ご覧になった方の感想には出来るだけ応接したいと思うので宜しくお願い申し上げる。

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