« 「ハンナ・アーレント」を観る | トップページ | 今年の第九 »

2013年12月14日 (土)

開高健のアイヒマン裁判の傍聴手記

 開高は1961年に裁判を傍聴した。その内容は『声の狩人』(光文社文庫2008年1月20日)で「裁きは終わりぬ」というタイトルで読める。開高は弁護側のセルヴァティウス博士のアイヒマン弁護に次のように問う。「つまり博士は、イスラエルがアイヒマンをむりやり16年の追跡のあげくにアルゼンチンからひったくって来たことについて、それが国際法を審判する暴力であると説かれるのであるが、いったいこのこといまの政治情勢のなかでどれだけの説得力をもつものなのか」。

 続けて「たとえばアメリカがこの戦後に太平洋で公海権を完全に踏みにじってつづけている核実験というものは、いったい、これは何だ。それは、〝国際法〟というおためごがしと、どんな関係をもっているのだ。この白昼強盗ぶりにくらべれば、アイヒマン一人の誘拐ぐらい、ユダヤ人の怨念の情熱は偉としても、行為それ自体は、まるで幼稚園の学芸会みたいなものだと言いたくなるじゃないか」(同書p47)。

 さらに「私の生活感覚によると、1961年のイェルサレム地方裁判所で展開されたものは、〝裁判〟ではなかった。いや、すくなくとも20世紀のたるみきった〝法と秩序〟の社会通念が判断する〝裁判〟ではなかった。むしろ、それは、一つの奔走する情熱の劇とでも呼ぶよりしかたないような性格のものであった」と続ける。

 同じくユダヤ人の哲学者としてこの裁判を傍聴したハンナ・アーレントとは異なる日本の作家としての細密な描写がかつて読んだ時には新鮮な手記として記憶されていて今回の映画を介して開高の手記を再読した次第である。映画では全体の長さからすれば少ししか登場しなかったハイデッガーのナチズムへの同調とも比較してこの問題は展開されなければならない。激動する現在の世界情勢のなかで開高は現世をどのように眺めて発言するだろうか。それを改めて確認していきたい。

|

« 「ハンナ・アーレント」を観る | トップページ | 今年の第九 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/58751529

この記事へのトラックバック一覧です: 開高健のアイヒマン裁判の傍聴手記:

« 「ハンナ・アーレント」を観る | トップページ | 今年の第九 »