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2013年12月27日 (金)

永遠の愛

 永遠の愛。そのようなものが存在するのか?という問いがワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のテーマだろうとして愚考すると、何やら思考の糸口が見える思いもするのがバレンボイムが指揮する「トリスタン~」を衛星放送で聴き観しながらの感想である。マルケ王はアカショウビンの偏愛するマッティ・サルミネン。タイトル・ロールの二人の歌手は未知の歌い手だが、そのような愚考を掻き立てる幸いに感謝する。

 先日から体調が悪く仕事を早引けし、しばしウィスキーを飲み横になり睡眠を取った。食欲がなく、このままあの世に渡るのかと妄想しながら眠りから醒めテレビを見ると此の放送に見入ってしまったのだ。男と女の桎梏にワーグナーは自らの体験を作品化した。それにフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなど多くの巨匠たちが共感、共振し演奏した。かつてのピアニストが今や指揮者として生業を世界に示している。「トリスタン~」を指揮するのもフルトヴェングラーはじめ巨匠たちの演奏に啓発されているのだろう。幕間の観客の歓声も公演の成功を物語っている。

 しかし、もう夜も更けた。明日は仕事に出なければならない。第3幕が始まるが床に就こう。

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2013年12月25日 (水)

或る人の誕生の日に

 時節柄、この数日、CDで第九やバッハの「クリスマス・オラトリオ」を聴いている。今朝も「クリスマス~」を聴きながらテレビの衛星放送を見ると〝ドレスデン十字架合唱団〟の昨年12月7日の日本でのコンサートを放映している。ブルックナーの「アヴェ・マリア」やグリーグの「海の星」など〝聖夜〟に因んだ作品が選ばれている。この東洋の異文化の国で異教徒の神の申し子とされた男の誕生を祝う根拠を多くの人々は知らない。アカショウビンは仏教徒の末席を汚す俗物であるけれども、しばし異教徒として感想を述べたくもなるのは毎年の衝動的な気持からである。

 「クリスマス~」のCDは1965年にカール・リヒターが指揮したミュンヘン・バッハ管弦楽団と同合唱団の録音である。「マタイ受難曲」とは異なる祝祭的な作品は異教徒といえど心浮き立つ感興を楽しむ。「マタイ~」の陰鬱で崇高な楽想とは異なるバッハという音楽家の持つ懐の深さは、この作品を聴くことによって味わい深く聴くことができる。

 それはともかく、ドレスデン十字架合唱団の変声期に差し掛かる少年達の声は中性的な不可思議な境地を表現する。それは敬虔なキリスト教徒としての無垢なものといってもよい。しかし、そこには宗教的な風土から醸成された文化が横溢している。それは異文化の人々には感性的には伝わっても理性的なレベルでは異なる境地となることもあるだろう。イエスという男が磔刑となって殺された歴史的事実をキリスト教文化圏では物語化して後世に伝えた。その現在に私たちは生きている。それは米国という超大国の政治的な現在と密接に関連している。その是非を問うことはさておく。しかし師走を求職しながら汲々として毎日を凌ぐアカショウビンに暫しの音楽的な時空間は心地よい事は正直な心境だ。異教徒にとってもベートーヴェンやモーツァルトと同じくバッハは、特別で別格な音楽家なのである。

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2013年12月24日 (火)

ターナー展を回顧する

 今回の展覧会で3品選ぶとすると「月光、ミルバンクより眺めた習作」(1797年)、「戦争、流刑者とカサ貝」(1842年)、「「平和‐水葬」(1842年)だ。水彩の達者な筆使いは画家の才覚と才能が横溢していて洒脱だが、晩年の2作品の色彩を重ねて独自の境地を表現した作品は画家が到達した境地を示して余りある傑作と確信する。初期の天才が晩年に奇跡のように結実したことを2品を凝視して納得した。「「流刑者~」のナポレオンの姿は画家の想像である。しかし、落剥した天才の姿が血の色とも妄想させる赤を基調とした作品の奥にある凄惨を彷彿させる。対照的に「平和~」は印象的な黒が友人の水葬という悲惨を見事に象徴している。ここに画家の才能は究極していると言ってもよい。展覧会で並べられた2品の対照は鮮烈だった。それは何より初期の「月光~」を凝視すれば起承転結を得た結果としてアカショウビンには納得された。 

 ターナーが17世紀のオランダ絵画に大きな影響を受けたという説明もフェルメールなど光に格別の関心を示した画家たちの作品を想起して考えるとなる何やら腑に落ちるのである。専門家がターナーを美術史に位置付ける時は後の印象派の先駆けというものだろうが史的な位置づけはともかく画家の視線の深さは、そのような表層的なものでないことを作品に正面してアカショウビンは納得した。

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2013年12月23日 (月)

今年を振り返る

 今年も残すところ9日になった。一年を総括すると、10月下旬に21年ぶりの帰郷で中学の同窓生達と旧交を温めて人生の一区切りをつけた事は幸いだった。母校も訪れ従妹の案内で田中一村の終焉の地も訪れられた。先祖の墓にも詣でた。還暦間際のわが人生を振り返り思い残すことはない。

 失業の身の上で何とか年が越せるだけでありがたい。先日、志ん生の長女、美濃部美津子さんの本(「三人噺」文春文庫2005年11月10日)を読んでいたら美濃部家の貧乏は唖然とする。それからすればアカショウビンの貧乏など取るに足らない。修行が足らん!と美津子さんからは一喝されるだろう。

 これから来年までの残りの日々に何が出来るか定かでない。仕事を見つけなければならない。知人を頼り友人たちにも声をかけているが他人の求職活動にかまってもいられないようだ。娑婆の生はかくの如し。自ら血路を切り開かねばならない。その間に冥土の土産に楽しいことも満喫しよう。先日に観たターナー展の感想も記して2013年を締めくくりたい。

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2013年12月21日 (土)

今年の第九

 毎年、師走はレコードやCDで第九を聴く。コンサートへ行ければいいが貧乏性のアカショウビンは安く上げるのが最優先。今年は小澤征爾でも佐渡裕でもフルトヴェングラーでもワルターでもなく衝動的に、オイゲン・ヨッフムの古い録音を選んだ。オーケストラと合唱団はバイエルン放送響。1952年の録音だ。記録では11月24日から26日、29日、12月1日、2日と、何と6日を費やしている。ヨッフムが全身全霊を投入して取り組んだ録音であることが推察される。ドイツの威信をかけて演奏、録音した記録であろう。このCD全集はベルリン・フィルとバイエルン放送響を指揮している。フルトヴェングラーやワルター、トスカニーニらの巨匠に続く期待された俊秀は後年ブルックナー指揮者として名声を高めていく。それも若き頃のベートーヴェンへの集中と渾身があればこそ。その成果をこの録音を聴いて推察する。

 昨年から今年は二人の友人の死を暫しのタイムラグを経て知った。娑婆での時は無常迅速。心から哀悼の意を表し同時代を生きた縁に感謝しよう。我が余生もいくらあるか知らぬが彼岸で会えることを楽しみにベートーヴェンの作品に集中するのだ。今年は21年ぶりに故郷に帰り中学時代の同窓生たちと再会を喜んできた。人生の起承転結は恙無く済ませた。2013年の師走を粛々と生きて新年を迎えよう。

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2013年12月14日 (土)

開高健のアイヒマン裁判の傍聴手記

 開高は1961年に裁判を傍聴した。その内容は『声の狩人』(光文社文庫2008年1月20日)で「裁きは終わりぬ」というタイトルで読める。開高は弁護側のセルヴァティウス博士のアイヒマン弁護に次のように問う。「つまり博士は、イスラエルがアイヒマンをむりやり16年の追跡のあげくにアルゼンチンからひったくって来たことについて、それが国際法を審判する暴力であると説かれるのであるが、いったいこのこといまの政治情勢のなかでどれだけの説得力をもつものなのか」。

 続けて「たとえばアメリカがこの戦後に太平洋で公海権を完全に踏みにじってつづけている核実験というものは、いったい、これは何だ。それは、〝国際法〟というおためごがしと、どんな関係をもっているのだ。この白昼強盗ぶりにくらべれば、アイヒマン一人の誘拐ぐらい、ユダヤ人の怨念の情熱は偉としても、行為それ自体は、まるで幼稚園の学芸会みたいなものだと言いたくなるじゃないか」(同書p47)。

 さらに「私の生活感覚によると、1961年のイェルサレム地方裁判所で展開されたものは、〝裁判〟ではなかった。いや、すくなくとも20世紀のたるみきった〝法と秩序〟の社会通念が判断する〝裁判〟ではなかった。むしろ、それは、一つの奔走する情熱の劇とでも呼ぶよりしかたないような性格のものであった」と続ける。

 同じくユダヤ人の哲学者としてこの裁判を傍聴したハンナ・アーレントとは異なる日本の作家としての細密な描写がかつて読んだ時には新鮮な手記として記憶されていて今回の映画を介して開高の手記を再読した次第である。映画では全体の長さからすれば少ししか登場しなかったハイデッガーのナチズムへの同調とも比較してこの問題は展開されなければならない。激動する現在の世界情勢のなかで開高は現世をどのように眺めて発言するだろうか。それを改めて確認していきたい。

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2013年12月10日 (火)

「ハンナ・アーレント」を観る

 昨夜、岩波ホールで好評の「ハンナ・アーレント」(2012年 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を観てきた。午後2時過ぎに行き午後7時の回を予約した。仕事を終えて20分前に会場に着くと既に満席。異常な人気だ。見終えて、なぜこのような地味な作品に観客が殺到するのか不可解だった。観客は中高年が多いが若い人もいる。最後のクレジットが終わり静かに退席する観客と共にエレベーターで1階まで降り秋葉原まで歩き帰宅した。
 それにしても、このような作品に関心が集まるというのも昨今の我が国の政治情勢と無縁でないことは了解する。戦後ドイツの復興と戦中ののユダヤ人虐殺問題が根深くドイツに影響していることは先般の安倍政権の閣僚である麻生のアホ発言でも了解できる事だからだ。特定秘密保護法の反対デモに参加した人々にも、この作品を観て行動した方々もいるだろう。
 そのように、この作品の持つメッセージは欧州以外の各国に伝わっていることは間違いない。ナチに同調したハイデッガーの教え子のユダヤ人であるハンナ・アーレントが『全体主義の起源』でセンセーショナルな物議をかもした時期以降の彼女の動向を作品は巧みに構成している。全体を覆うトーンは静謐といえるもので時にハンナが激高する場面はあるが監督の知的な冷静さが作品の隅々まで行き渡っている。
 この作品が日本の観客にどのように関心を持たれているのか観終わっても不明だが現在の政治状況と無関係でないことはわかる。
  アカショウビンはハンナの読者ではないがハイデッガーは、この20数年、断続的に「存在と時間」はじめ講義録、講演記録を読み継いでいる。その中で、戦前から戦中、戦後のハイデッガーの思索は聴講生だったハンナ・アーレントやエマニュエル・レヴィナス、ミシェル・フーコー、我が国では木田元氏、吉本隆明氏の著作を通してハイデッガーの影響が濃淡はあれど継続していることを興味深く思うのである。
 作品はハンナとハイデッガーの恋愛も絡めながら、ニューヨーカー誌に連載した彼女のアイヒマン裁判の傍聴記事が多くのユダヤ人から脅迫的な反響を生じる様子を中心に物語は進行する。その過程は監督の解釈だが、それがドイツや日本で評価を受けているということだろう。わが国では開高 健が同裁判を聴取している。それは読み直して感想を書くつもりだ。
 しかし多くの観客はハンナやハイデッガーの著作に接したことがない人も多いと思われる。そこで作品のメッセージは何がどのように受け止められているのか?それは、それぞれの観客に聞かなければわからない。アカショウビンにとって、それは改めてハンナやハイデッガーの著作を熟読することである。そこから恐らく現在の政治・文化状況に発言を督促される機会が生ずると思われる。ご覧になった方の感想には出来るだけ応接したいと思うので宜しくお願い申し上げる。

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