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2013年10月 1日 (火)

音楽の力と恩恵に面を革む

 シューベルトのピアノ・ソナタ「幻想」(D894)についてはこのブログで何度か書いた。多くの練達のピアニストたちが録音を残している。それは天才、名人と称されている人々である。聴き比べたのは、その幾つかに過ぎない。しかし、その中で傑出している、と感嘆したのが1978年のリヒテルのライブ録音だ。第1楽章は異様な遅さである。モルト・ モデラート ・エ・カンタービレと指定されたこの楽章をブレンデル盤は17分16秒で演奏している。ところがリヒテルは26分18秒である。しかし、そこにリヒテルが込めた作品に対する解釈と本質が聴きとられる。他の名人、天才たちのライブやスタジオ録音とは隔絶した一人のピアニストの演奏が奇跡的に留められていると思う。「また、いつものオーバーな感想が始まった」と揶揄されても、その録音を聴いてからにして頂きたい。

 先日、引っ越しのなかで段ボールに隠れていた音楽之友社の「クラシック名盤大全 器楽曲編 保存版」(1999年10月1日)が出てきたのでシューベルトの項に目を通した。そこではp212~225まで各ピアニストの録音評が掲載されている。その中にリヒテルの1978年のライブは入っていない。しかし、この作品を含めてシューベルトのピアノ作品に対する名人、天才たちの演奏に対して様々な評論家たちの感想が記されているのを読むのは楽しい。その一つを紹介してみよう。アカショウビンが聴いた限りではリヒテルにもっとも近い演奏として聴いた田部京子が1999年の3月、4月に録音したCDついてである。評者は岩下眞好氏。失礼を省みずに全文を掲載させて頂く。

 >田部京子のシューベルトは、音楽を愛するすべての人々に薦めたい最高の演奏だ。この人のシューベルトは、一度聴いたら何度でも聴きたくなる。第20番も繰り返していつ聴いても心洗われずにはいられない「最高」の演奏だったが(別項参照)、新録音の第18番と第13番のソナタも素晴らしい。作品のなかに秘められたシューベルトの心の「真実」に虚心坦懐に迫る。演奏というものが、技量や解釈の研究もさることながら(この点でも田部の演奏はりっぱだが)、なによりもその演奏家の心と感受性と人格からつくり出されることを実感させてくれる。新世代のハスキルとなるか。芸術がビジネス化しショー化するなか、本道を行く貴重なピアニストだ。(以上、引用終わり)
 
 殆ど絶賛である。この評語にアカショウビンもほぼ同意する。しかしリヒテルの録音を聴いて考えるに、アカショウビンは「音楽を愛するすべての人々」のすべてが看取するのが困難な境地と世界がリヒテルによって切り開かれていることを強調したい。例えばフランスのピアニストであるラドゥ・ルプーの1979年の録音を聴いた時に私はリヒテルと比べれば児戯に等しいと直感し、以前の記事の中で切って捨てた。それは乱暴な感想だが、アカショウビン正直な感想として伝えておきたい。ルプーというピアニストを紹介する時の有名なキャッチフレーズである「千人に一人のリリシスト」という評価が正確だとしてもだ。先の本の中で中村孝義氏はルプーの録音を「彼の演奏を実際に耳にしてみると、とてもそういった、言葉だけでは表しきれない幅の大きな演奏家であることが分かる。確かにその豊かな叙情性は一際抜きんでているし、その音色の美しさも天下一品である。しかし、それを特徴づけるには、それ以外の要素が並はずれて充実していることが不可欠であろう」と評している。それを読んでもアカショウビンの感想を撤回するつもりはない。何と頑固でへそ曲りであることか、と揶揄されてため息をつかれても(笑)である。

 また内田光子の1996年9月の録音については大木正純氏が次のように評している。「内田光子は、目下シューベルト弾きとして、世界でも指折りの存在に駆け登ったといえるのではなかろうか。(中略)隅々まで濃密な表情でびっしり埋め尽くされ、およそ一瞬たりともテンションの緩むことがない。(中略)さらに欲を言うなら、どこかにもう少し、ほっと息を抜けるようなリラックスした歌の柔らかく漂うシーンがあってもよいとは思うのだが、さながら匠の手になる手の込んだ工芸品のような、見事なまでの仕上がりには、つくづく感嘆した次第」と記している。

 そのような他の評者の批評を勘案すればシューベルトのこの作品の本質とでもいうものが浮き彫りにされるだろう。しかしそれは各録音を聴いて各人が言葉にしなければならない。アカショウビンもリヒテルの録音を聴いてから内外の他のピアニストの録音を聴き始めた。今、これを書きながら聴いているのはブレンデルの1988年3月のCDである。これはまたこれで稀代のシューベルト弾きとして賛嘆されるピアニストの到達した境地である。近年引退したこのピアニストのモーツァルの協奏曲は今でもたまに取り出して聴く。一度くらいは実演に接してみたい演奏家は数多くいる。しかしレコードが発明されて以降の〝複製の時代〟に多くの音楽愛好者たちには複製品で繰り返し聴き直すのが私たちが生きている現在の世界の負う不運と幸いでもある。その不運を超えて作品が齎す響きはアカショウビンを活性化させることも正直な実感だ。田部や内田の録音が世界レベルに達していることは同じ日本人として改めて言祝ぎたい。そして是非多くの皆さんに、この作品を、またマニアの方たちにもリヒテルのライブを聴いて頂きたいと心から思う。

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