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2013年10月18日 (金)

日々、映画三昧②

 先日は友人のN君のお取り計らいで都内で行われた米国の新作映画の試写会へ行ってきた。「42 世界を変えた男」(ブライアン・ヘルゲランド監督)だ。ハリソン・フォード演ずる球団GMランチ・リッキーが白人達が独占していたプロ野球界に黒人選手を送り込む。それがマスコミを巻き込んだ大騒ぎとなる。ところが、ただ一人、大リーグ全球団の永久欠番になった男ジャッキー・ロビンソンは苛酷な差別を受け受けながらも耐え抜き野球界を変えていく。実話に基づく経緯を描いた作品である。上映後には会場から小さな拍手も起きた。

 N君とは試写会が終わってから飲み屋で一杯やりながら皮肉を込めた感想を伝えた。彼は自分がせっかく誘った作品を貶されて少しお怒りに。ビールをがぶがぶ飲みながら食事も。体調悪いアカショウビンを余所目に注文した品を次々と平らげていく。よくある痩せの大食いというやつである。呆れて見ている小食のアカショウビンを尻目にパクパク、ガツガツ。それは見事な食いっぷりだった。思わず大食女タレントを思い出させた。さすがに彼女には負けるだろうがN君と一度対戦させてみたら面白いと空想した。

 それはともかく新作映画は拍手が起るくらいだから興行的には期待がもてるだろう。しかし天邪鬼のアカショウビンは米国の黒人差別を描いた作品は「ミシシッピー・バーニング」が遥かに上だと述べた。最近は新作の情報も聞かないがあの作品でアラン・パーカーは米国の歴史の汚点を見事に映像化した。刑事役をジーン・ハックマンが熱く演じている。「許されざる者」でC・イーストウッドと共演した役より存在感を示しているのに感心した。近い内に久しぶりに観直してみようと思う。

 どうしても観たいという衝動が起きない中で唯一劇場に足を運びたいのが今月後半に東京で上映されるという亡きテオ・アンゲロプロスの「エレニの帰郷」だ。前作の「エレニの旅」は誠に秀作だった。その続編が監督の死後に東京国際映画祭で日本のファンに届けられる。試写会が10月21日に行われていると知り早速ネットで注文。ところが既に売り切れという表示。一縷の望みをもって電話で問い合せると若干席がございます、というご返事。早い者勝ちですが明日の午前10時に電話予約して下さいというご返事。次の日に満を持して電話をかけると話し中でまったくつながらない。注文が殺到しているのだ。40分後にあきらめながら電話するとつながった。ところが案の定売り切れ。残念無念。一般公開は来年の年明けというので、それまでお預けだ。

 憤懣やるかたなく、他の作品をレンタルショップで探すと一枚50円のショップには在庫していなかった。以前他のショップで見た記憶がある。近い内にその店を訪ねてみよう。昨年、監督の死が新聞報道されたときに3部作の第3部を制作中だっと報じられていた。ところが監督の突然の死で未完の遺作となってしまったのが惜しまれた。

 我が邦の若松孝二監督も交通事故でコロリと逝ってしまった。実に惜しい優れた二人の監督を相次いで失ってしまったのは残念だ。若松監督の場合、作品を完成させた後だったからよかった。「千年の愉楽」は原作を良く映像化していると思った。紀州の若い男達の太く短い人生を寺島しのぶが産婆役で男達の生き様と死に様の消息を語り部となって好演していた。若松監督は寺島を起用して「キャタピラー」で世界的な監督にのし上がった。寺島も母親の富司純子の反対を押し切って激しい性交シーンを演じ作品に魂を吹き込んだ。映画産業とは或る意味でヤクザな業界だ。その中で世界的な作品を世に出すのは至難の業である。ところが、必ずそういう作品が突然登場するのだ。

 戦後の日本映画でも黒澤明や小津安二郎、新藤兼人らの名匠の作品が世界的に賛嘆された。ところがテレビの登場で映画は大きな影響を受ける。最初は高価な電化製品だったが徐々に普及していくうちに価格も安くなり生産は増え各家庭の茶の間にテレビが鎮座ましますようになる。それとは逆に映画産業は陰りをみせ衰退していく。街の映画館が一つまた一つと閉館していった。

 敗戦国の日本やドイツ、イタリアの第二次世界大戦後の時代変化は急激だった。科学技術の急速な進歩はヒロシマとナガサキに落とされた原爆を契機に米国とソ連の対立の中で水爆の製造競争となり世界滅亡のシナリオまで行き着いた。映画作家達も自らの作品の中で想像力を駆使する。S・キューブリックの「博士の異常な愛情」はその好例だ。黒澤も傑作「七人の侍」に続いて「生きものの記録」として作品化した。原爆・水爆の恐怖から主演の三船敏郎が狂気に至る主人公を熱演している。世界に肩を並べる日本映画界は巨匠達の作品と共に60年代から70年代にかけて若い優れた監督達が登場する。同じ松竹で小津安二郎に反発した吉田喜重や大島渚らである。安保闘争の中で彼ら若い監督たちは先輩監督たちとは異なり理屈が先に来る作品を世に問うた。何事も理論が先行するとろくなことはない。理論が先行した芸術作品は大衆にはとっつきにくく敬遠される。巨匠たちの作品と若い監督たちの溝は深まっていく。

 ところが若い学生たちは中高年に比べ、そのような作品を受け入れた。それに反発するかのように登場したのが任侠映画である。男は理屈より行動とばかりに派手な殴りこみや荒っぽい斬りあいシーンは工場労働に疲れた若い労働者たちの憂さ晴らしに支持された。今や老境の高倉健が振り回す刀で斬られた悪役たちは血しぶきをあげて殺されていく。そこに観客の鬱屈した無意識が解放され共感を呼ぶ。早撮りで作品を量産したマキノ雅弘監督は高倉健をスターに育て上げた。作品には日本人好みの人情をたっぷり織り込み義理人情で観客をほろりとさせる。併せて明治以降の戦争と経済成長のなかで露呈する矛盾も描いた。労働者と経営者の相容れない対立構造のなかで下層労働者の視点に立ち侠客の正義感を際立たせた。マキノの仕事は有能な職人監督の顔と合わせて若い俳優達の演技指導にも長けていた。多くの熟練した名優たちの中で素人のような高倉健が後年は降旗康男監督の秀作でスターから名優の仲間入りをしていくのはファン達には少なからぬ驚きの目で見られただろう。

 昨今のアニメ隆盛は青い瞳のファンも増やし愛でたいことではあるが一部の作品を除き、中高年真っ只中のアカショウビンには観る気が起きない。それは老化による反射神経の衰えも作用しているだろう。やはり小津作品の時間感覚が繰り返して楽しむ適度なテンポなのである。中流家庭の日本人たちのマンネリすれすれの日常を描いて巧みな味わいを生み出す。名匠の所以である。その衣鉢を継ぐのが同じ松竹出身の山田洋次監督だ。先日観直した「学校Ⅲ」は今こそ見ると時代の先取りとして金満大国に成り下がった日本国に新たな問いを投げかけているではないか。

 それからすると米国製の新作野球映画は文化土壌はともかく一味も二味も異なる。C・イーストウッドが主演した「人生の特等席」は父と娘の確執も織り込みアメリカ人の人情も描き秀逸。かつての野球少年だったアカショウビンには米国の野球界事情がとても面白かった。

 まぁ、こちらとしては不満もあったが上映終了時には拍手も起こったということは興行的には期待出来る作品ということでもある。中高年になり余生を生きるアカショウビンには日米のプロ野球界は殆ど興味がない。しかし日米の少年達には野球は魅力的なスポーツなのだろう。先日の試写会には父親に連れられた少年の姿もあった。

 それはともかく、アカショウビンには西洋音楽やジャズの名作、名演奏をCDやDVDで楽しむのが一生の道楽であるが、それに加えて映画の名作を繰り返し楽しむのも同様である。テオ・アンゲロプロスの新作は来年の楽しみになってしまったが、失業の日々は毎日が日曜日。時間は余るほどある。読みかけの本も読まねばならない。名演、名作を聴き観ながら日常に喝を入れるのだ。

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