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2013年10月31日 (木)

故郷と故国の現状

 田中一村の終焉の地の近くには巨大な徳洲会病院が威容を見せている。これは21年前の帰郷の時にはなかった。現在のスキャンダルを見聞しながら、徳田虎雄という男の栄枯盛衰に思い至る。氏は弟を病で失った悔しさで医者を志す。その初心が、このような結果で抹殺されるのは惜しい。多くの善意は全体の総意によって抑圧される。現状を報道で垣間見ると暗澹たる思いだ。

 弟の話では父の葬儀の時は氏の奥様が弔問に見えたということだ。氏も父とは因縁があった。本土から遠く離れた南島で氏も父も不十分な医療体制を憂えて改革に乗り出した。しかし時の経過はその熱気を吸収し無化する。その経過は日本国が金満大国として盛衰する状況に同調している。資本主義の欲望原理が人々の善意を食い尽くすのは洋の東西を問わない。

 この40年間、金融の自由化とグローバリズムの掛け声のもと犬の尻尾(金融)が頭(雇用)を振り回す経済構造が出来上がった。その行き着いた先が2008年9月15日のリーマン・ショックだ。アカショウビンも、その影響で再就職が叶わず大阪へ移住した。先進諸国の長期にわたる超低金利時代は新興国から新たな先進国家を生みだす。英国と米国による帝國の支配は終焉を迎えているようにも見える。しかし果たしてアカショウビンが生きている間に、その息の根が止められるのを目の当たりにすることができるだろうか。

 既に先の大戦の敗戦の後にハイデッガーは現象学と存在論的な人類史的射程で思索を深めて警告している。しかし人間たちの業は滅亡しなければ終わらぬのか?学者は将来の見取り図をマスコミを介して開陳する。新聞報道も同様。しかし、そこでの警告は国民の現状とは常に擦れ違う。それは死んだ標本を展示するようなものだ。インテリどもの浅薄な毒にも薬にもならぬ論説が展示されているだけだ。正に歴史の法則のように愚行は繰り返される。それは正しく人間どもの業なのだろう。

 先日、試写を見た「人類資金」(2013年 阪本順治監督)は金満大国で生きる善意の人々の危機感、憂慮、正義感から紡がれている。なるほど現実と対抗する気概で作品は制作されたことが伝わる。新聞の一角では女性プロデューサーの「思う映画を作れなくなくなってきたんです」というコメントが記されていた。宮崎県出身らしい。好きな言葉は「のさらん福は願い申さん」。余分な幸せは他者に、という意味と記者は解釈している。九州女の面目躍如を期待する。隣県の熊本には石牟礼道子がいる。世界で外国人たちと丁々発止渡り合っているのは女たちだ。男どもは何をしているのか。草莽が決起した明治維新の熱と活気は果たして此の國に再現することがあるだろうか。

 帰郷の最終日には従妹の案内で祖先、親戚たちの墓に詣でた。昔の粗末な石作りの墓とは見違える立派な墓が建てられていた。しかし、わが一族も滅亡の危機に瀕している。かつての活気を体験した者としては忸怩たる思いで瞑目した。本家の高倉があった場所には新たに家が増築されている。そこは父の葬儀の帰りに泊まった家だが、その広さを従妹の案内で改めて見て回った。先祖の遺影は静かに末裔たちの訪問を楽しみにしているようでもあった。それにどう応えるか。

 一村の生涯は「アダン」(五十嵐匠監督 2005年)で映像化された。奄美空港近くの記念館には作品も展示されていることだろう。多くの一村ファンがそこを訪れる。今回は多忙で訪れることが叶わなかったが作品は画集でも繰り返し見られる。映画もDVDになっているかもしれない。榎木孝明の熱演は共感する人も少なくないだろう。しかし映像は映像。現実の一村の生涯は作品に正面するしかない。

 愚考を重ねながら空港に向かった。昔は鹿児島までの船旅と夜行電車で首都まで二昼夜かけて辿り着いたものだ。それが空路2時間で済む。近代とは斯くの如しの便利を生んだ。しかし、そこで失われるものにこそ我々は賭けなければならない。そのような愚想も羽田に着けば明日からの生業で沈んでいく。しかし今回の短い帰郷の経験は暫く反芻しよう。従妹に案内の礼を言いながら聞く彼女の声の明るさは希望だ。そこに活路を見い出して再び帰郷したいという衝動にも駆られた。

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