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2013年9月29日 (日)

人間とはどういう生き物か?

 ハイデッガーが生涯思索し続けた思索とは「存在とは何か?」という問いについてだ。それに回答することで「存在と時間」という著作を世に出した。そこには今まで展開されたことの新しい思索と思考、考察が繰り広げられている。それは実に難解で多くの読者が理解できずに匙を投げたことは周知の通りである。多くのドイツ人にも、それは不可解な書物とされている。しかし幾人かの人々が、その構想のよってきたるところを理解した。日本人では、古くは西田幾多郎や和辻哲郎だろうし現在では木田元(以下、敬称は略させて頂く)だろう。木田は先の大戦から帰国し闇屋として生計を立てるなかで「存在と時間」を理解するために東北大学でドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシア語を独習しながら精進した。和辻は代表作のひとつ「風土」(1935年)の中で、ベルリンでハイデッガーの「有(和辻の表記ではこうなっている)と時間」を読んだためと明かしている。

 そのような研究、考察を介して「存在と時間」という著作とハイデッガーの思索の動機と展開が日本人にも理解されてきたのである。アカショウビンも、その恩恵によって思索を継続している。木田は未完の「存在と時間」の完成を目論んだハイデッガーの「現象学の根本問題」の新訳(作品社 2010年10月)を発刊した。ハイデッガーの2著は当時の学者や研究者にとっても大きな反響を起こし早急に翻訳が試みられたことを木田は新訳を発刊する理由として説明している。それは、現在進行中の創文社の翻訳が何とも読みにくいことへの反発であることも。なぜなら「存在」と「時間」という訳語も創文社版では「有」と「時」にするという制約がかかっているからだ。各著作の中でもハイデッガーが駆使する用語は独特で読者に困難を強いている。それを発刊以降なじんできた「存在」と「時間」という用語を新たに「有」と「時」と訳し変えるのは読者に新たな困難を強いていることになる、というのが木田の不満なのだ。

 それでは木田監修の「現象学の根本問題」を新訳で読み直すことから始めなければならない。アカショウビンは酷暑の夏で残り少ないだろう余生の体力を急激に消耗した。そこから回復するためには読む楽しみが精力剤の効果を齎すかもしれない。秋は食欲が増す時期でもある。来たる冬に向けて体力をつけ精神を活性化させていきたい。

 ハイデッガーは存在とは何か?いう問いに回答する中で、人間を天上的でない世俗的なものとして捉えることではなく、「存在へと身を開き‐そこへと出で立つありかた」において捉えることである「『ヒューマニズム』について」(ハイデガー著 ちくま学芸文庫 p105 1997年 渡邊二郎訳) と説明・解説している先の大戦中から戦後にも継続された思索は興味深い。戦後のハイデガーの思索の根幹がフランス人、ジャン・ボーフレ氏との往復書簡の中で言葉を尽くして展開されている。1947年の出版に至る経緯は紆余曲折があったものと推察される。戦後に広く流通し現在もその頃と殆ど変わらないだろう「ヒューマニズム」という術語にハイデガーは反発し語の本来の意味するところを説く。そこで費やされる言葉の奥にハイデガーが見据えている存在という語の奥行きが直感される。それは未だに継続されなければならない思考と思索だ。敗戦国のドイツ人がフランス人の質疑に実直に応答している。主著「存在と時間」以後も継続されているハイデガーの思索が実に興味深いではないか。このような思索を読み直し日常の通俗から脱却し生きる力を湧き起こすのだ。

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