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2013年7月 6日 (土)

境界・境域を越える

 柄にもなく、夏には歴史を振り返る衝動に駆られる。怠惰な人生に何事かの意味を探そうという足掻きかもしれない。しかし友人たちが此の世を知らぬ間に去っていることに暗澹とすると此の世の記憶を文字に残しておきたい欲動に駆られるのは性のようなものである。

 その切っ掛けは次のような新聞記事に刺激されることで生じる。4日の毎日新聞夕刊3版の6面の木田元氏のインタビューを昨夜読んだ。生涯をかけたハイデガーに関するものではない。「参院戦に望む」という特集の一つである。見出しは「『時代の勢い』に同調するな」。副見出しは「『分かったふり』せず、疑おう 経済成長最優先でいいのか」。木田氏の経歴は省く。広島の原爆投下を江田島で海軍兵学校の生徒として目撃した、いわゆる戦中派世代である。戦後の苛酷を闇屋として生き延びた生き証人でもある。記者は、子供たちの歓声に耳を傾けながら、〝闇屋になりそこねた哲学者〟は、見出しになった「時代の勢いに同調してはいけません」と繰り返した、と書いている。この言葉の重みは読む者に、どれほど伝わるだろうか知らない。しかし戦後を生き抜いた思索者として、その深みを想像せずに現在を生きられないことは愚想する。先の大戦で、戦艦大和の生き残りである吉田満氏の「散華の世代から」(1981年3月27日 講談社) も再読しよう。

 前後するが同紙の3日の夕刊3版には韓国の作家、李承雨(イ・スンウ)氏のインタビュー記事も掲載されている。久しく小説を読む習慣のなくなったアカショウビンにとって、先日衝動的に魯迅の短編を読んだくらいで、この1959年生まれの韓国の作家の名前も初めて知った。記事によると邦訳は3冊目という。タイトルは「真昼の視線」(岩波書店)。ご自身の文学テーマが「不在の父」という。男子大学院生が名も知らぬ父親を探す旅に出て物語は展開する内容らしい。それはともかく、「書くことは宗教的な行為ではなく、救いの方式。真理を追究する方法ではないかと思っています」と述べたと書かれている。その言や好し。小説に限らず、詩であれ、評論であれ、音楽家の演奏であれ、舞踊、舞踏であれ、芸術や芸事とはそういう行為であると思われる。アカショウビンにとって木田氏の仕事に関すればハイデガーの「芸術作品の根源」(2008年7月10日 関口浩訳 平凡社)を再読する衝動に誘われる。それはゴッホの絵画から展開されている論集だが、その思索は詩や音楽にも及ぶ可能性を秘めている。それはまた国境や他者という境界・境域を超えて思索するという行為である。

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