« 歌人の鎮魂 | トップページ | 散華の世代から »

2013年7月25日 (木)

夏を往く

 8月を前にアレコレ愚想する。多少の縁のあった方の日記を転送自由というので引用させて頂く。吉田満の「散華の世代から」(1981年、講談社)を読み直しながら様々な言説、論説と反響し娑婆の夏を過ぎ行きたい。

 かつての教え子が福島に住んでいる。作家志望だったが卒業と同時に、ふるさとの農協に就職した。なにか考えるところがあったのだろう。学生時代よくラーメンを食べさせてもらったことを忘れていないらしく、毎年、新鮮な野菜を送ってくれる。さすがに去年は届かなかったけれど、今年から復活した。

 夏はトウモロコシやインゲン、青菜など。秋はジャガイモとさつま芋であった。とても食べきれないほどの量である。例年、隣人におすそ分けしていたが、今年は自分たちだけで食べることにした。微妙なためらいがあった。かれが働いている農協は、水素爆発した原発から50キロぐらいのところにあるからだ。

 もしかすると放射能が…。そんな迷いをふり払って「国破れて山河あり」と胸でつぶやきながら、すべてを食べた。せつないほど旨かった。大地の滋味があった。噛みしめていると、教え子の顔が浮かんでくる。ひたむきな目で問い糺(ただ)されているような気がした。

「なぜ沈黙しているのですか。何度かデモにいったぐらいで終りですか。もう戦う気はないのですか」と。
 熱々のジャガイモを食べながら、わたしも胸で答える。
「脱原発の気運が生じるまでデモに行くけれど、世論が盛りあがってきたら小説にもどりたいんだ。いまライフワークの長編を書きつづけている最中で、これを完成させなければ死ぬに死ねないんだよ」

 そんな無言の問答をつづけていたが、つい先月「脱原発社会をめざす文学者の会」が誕生した。呼びかけ人としてわたしも名を連ねることになった。かつて、こうした会に加わったことは一度もない。巷の片隅で働いていた若い時分、文学者たちが声明を出すたびに苦々しい気分になったからだ。文学者の発言がなにか特別で社会的な意味をもつと信じて疑わない、特権的なおごりを感じていた。

 だから作家の端くれになってから30年以上、極力、そうした集団的な行為を避けてきた。戦うべきときは単独で行動する。それが自分なりの姿勢であると思っていた。

 だが初めて「文学者の会」という集まりに参加することになった。事が事である。それに代表が加賀乙彦さんであると聞いたからだ。加賀さんは83歳で、心臓の手術を受けたばかりである。胸にペースメーカーが埋めこまれている。いまさら私心や党派性などあろうはずがない。そのような人が矢面に立たれるからには脇を支えなければならない。

 もう一つ、思うところがあった。JAが脱原発宣言をしたことに感銘を受けていたのだ。米や野菜などわたしたちの日々の糧を担う農協が、もうこれ以上、ふるさとの田畑が放射能汚染されることを拒否すると、はっきり宣言したのだから。これは極めて重いことだ。目さきの政治経済よりも切実な、根源からの声ではないか。

 長い小説を抱えているとき、わたしはよく福島の竹林に隠(こも)っていた。原発から30キロ圏すれすれの山里だった。魚を食べたくなるとバスに乗って小名浜港へ出かけていった。カモメが群れ飛ぶいい港町だった。沖あいで黒潮と親潮がぶつかっているから、暖流と寒流の魚が市場にならんでいた。

 福島原発と東海原発の中間にある五浦海岸も好きだった。天心丸の漁師とアンコウの干物をつまみに酒を飲んだりした。岡倉天心が隠っていた六角堂は津波にやられてしまったそうだが…。

 JAにつづいて、漁業協同組合も脱原発宣言をすればいい。なんの落度もないのに一方的に海を汚染されて、魚を出荷できなくなったのだから。パン屋さんも、リンゴ農家も、そば屋さんも、本屋さんも、いっせいに声をあげるといい。これほどの惨事を体験しながら、若狭湾のほとりでふたたび原子の火が燃えはじめた。喉もと過ぎるとはすぐに忘れてしまいがちだが、それぞれの地場から粘り強く声をあげるしかない。
                   (北海道新聞 2012年11月23日)




                          

|

« 歌人の鎮魂 | トップページ | 散華の世代から »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/57859479

この記事へのトラックバック一覧です: 夏を往く:

« 歌人の鎮魂 | トップページ | 散華の世代から »