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2013年7月15日 (月)

此の世の痛苦と水俣の叫び

  昨夜のNHKテレビで水俣が特集されていた。アカショウビンが学生時代に九段の公会堂で観た映画で、その惨状は眼に焼き付けた。此の世の痛苦というものがある。それは近代という時代に人間という生き物が生み出したものだ。歴然とした因果関係がある。その責任を企業は国家を後ろ盾に逃れようと画策する。チッソと東電の姿勢は、それが同じ構造であることを露呈している。昨今の安倍政権の原発継続や改憲論説も戦後日本の世界史のうえでの新たな可能性を閉ざす陳腐で愚劣な退行政策に成り下がっている。ミナマタとフクシマはパラレルだ。そこから脱却する試みが戦後日本が世界史のなかで試みる新たな可能性なのだ。それは仏教哲学で言えば人間の業というものだろう。人間という珍しい種(ニーチェ)は、やはり愚かな生き物でしかないのか。その業は克服し乗り越えられないものなのだろうか。そこで日本国民は人間という生き物の存在の可能性を問う根源的な局面に対面しているのではないのか。

 水俣病の水銀中毒を体現し生き長らえている坂本しのぶさんは此の世の痛苦を生きておられる。その姿と言葉は、ニホンが戦後をどのように通過してきたか根本的な思考を強いる。それは人間という生き物の存在理由を問う。

 1971年5月。チッソ大阪事務所の川村所長に浜元フミヨさんが詰め寄ったという言葉を引かせて頂く。そこには患者に共通する叫びが聴き取れるからだ。著者は石牟礼道子さんによる再現である、と断っているが、それは近代技術による文明社会を生きる便利の裏で犠牲になった人々の生き様の苛酷を抉り伝えている。

 「わたしゃ、恥も業もいっちょもなかぞ。よかですか、川村さん。おらあな、会社ゆきとは違うぞ。自分げで使う会社ゆきと同じ人間がものいいよると思うぞな。千円で働けと云えば千円で、二千円で働けと云えば二千円で働く人間とはちがうぞ。人に使われとる人間とはちがうぞ、漁師は。おるげの海、おるげの田畑に水銀たれ流しておいて、誠意をつくしますちゅう言葉だけで足ると思うか。言葉だけで。いうな!言葉だけば!そらっ、お前の横に座っとるその青年。みてみろ!その青年ばあ。よか青年じゃろが!仏さんのごたる面しとるじゃろが・・・・・雇うかあその青年をば、雇えっ。雇えきるか。片輪ぞ。汝(わる)げの会社に片輪にされた青年ぞ。その青年ばかりじゃなかぞ。もひとりおるぞ。その家にゃ。片輪ぞっ。もひとりも。世間に出てゆくことがならずに家の中におるぞ。もひとりも雇うかあっ。おっかさんもぞ。そらっ。ここに来とらすぞ、おっかさんも。妹もぞ、その妹は、死んだぞおうっ。お気の毒ですむと思うか。お気の毒で。まだおるぞ。そらっ、お前の前の、坂本タカエちゃん。嫁にゆきならずに戻されてきたおなごぞっ。水俣で。子供生まされて。お前が貰うかあっ。お前が、そのおなごば。貰えっ、貰いきるかあっ」。(「民衆という幻像」)  渡辺京二コレクション2 民衆論 所収 (p87~p88)

 注釈はいるまい。この憤怒と痛憤は時を超え現在の、また将来の相馬住民の言葉として相馬弁で吐かれ、吐かれるだろうからだ。

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コメント

福島の場合、後遺症が出るまでの期間は。ぃゃ眼に見える程の後遺症は無い所が恐しい。

投稿: snokey | 2013年7月19日 (金) 午後 10時41分

 snokeyさん、コメントありがとうございます。おっしゃる通りですね。先日も仕事絡みで、弟さんが双葉町から白河へ引っ越した方の話を聞いてフクシマの現実を思い知らされました。

投稿: アカショウビン | 2013年7月20日 (土) 午前 07時39分

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