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2013年7月30日 (火)

或るベートーヴェンの演奏

 朝の音楽番組でベートーヴェンの「ワルトシュタイン」を聴いている。高齢の女性ピアニストである。最初はブゾーニ編曲のバッハの「シャコンヌ」。アカショウビンにとってバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」は、若いころ受験や進学で懊悩していた時に啓示の如き音楽として心底で響いた。同じくベートーヴェンも中学生のころ西洋音楽への扉として交響曲第5番が水先案内となった。

 女流ピアニストの「ワルトシュタイン」を聴いていると、かつて吉田秀和氏がヨーロッパを周遊されるなかでエリー・ナイを聴いた時の一文を思い出す。その時のリサイタルが、まるで巫女の周囲に集う神事のような演奏会だったという評語だ。アカショウビンは、たまたまエリー・ナイの晩年の録音を聴いて驚愕した。これは幾多のベートーヴェン弾きの中でも傑出したピアニストだと確信したからである。ナイは聞けばヒトラーのナチへの同調者だった。戦後もその節を曲げなかったというから、それが影響して演奏会を制限されたのかもしれない。吉田さんも、そういった情報を聞いて演奏会に接したかもれない。もちろん音楽批評家・吉田秀和が、そのような話に左右されて演奏を聴きとるうえで邪念が入ることはなかったと思うが。

 優れたベートーヴェン弾きと政治的立場は微妙だが割り切って別の次元の事として立て分けてもよいとアカショウビンは思う。音楽家も一人の市民、国民であれば政治的立場は自由だ。それと彼や彼女が奏でる音楽の価値は区別すべきとアカショウビンは考える。

 女流ピアニストの運指は決して軽快で滑らかではない。しかし、ベートーヴェンの思索に共振する如きパッセージは、あまたの演奏家に共通する響きを醸しだす。それはベートーヴェンの音楽の本質に通底していると思われた。

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2013年7月29日 (月)

娑婆の楽しみ

 BSでドレスデン国立管弦楽団をクリスティアン・ティーレマンが指揮している。ピアノはマウリツィオ・ポリーニだ。いや、いやポリーニも歳をとった。しかしピアノに向かうと矍鑠たるものだ。聴衆も歓呼の声をあげてスタンディング・オベーション。こちらは不眠で、また睡眠不足。しかし音楽は、娑婆での楽しみのかけがえのないものだ。

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N君へ

 血液10本分の採血とは驚いたよ。アカショウビンなら悶絶もんだね(笑)。でも高校教師は夏休みがあるから好かったとも言えるのではないかな。下層サラリーマンなど会社都合で経営が悪くなったから早めに退職してくれだからね。ご家族や妹さんが、もっとも心配だろうけど、術後は後学のために体験談を聞かせてくれたまえ。それにしても世に棲む日々には、いろいろな事があるよ。それを乗り越えれば新たな喜怒哀楽だ。真夏の手術で大変だろうが、成功を心より祈っているよ。こちらも求職活動をしながらヘロへロ、ヨタヨタになりながら夏を凌いでいかねばならない。

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2013年7月25日 (木)

散華の世代から

 吉田満氏は1979年9月17日に亡くなられた。事故で片目を失明されたという話は何かの著作か雑誌の記事で読んだが2度の引っ越しで資料はない。存命であれば90歳であられる。

 先日、業界の先達の葬儀で芝の増上寺へ赴いた。92歳のご長寿であられた。業界の主だった方々が参列された。末席を汚した。儀式的な告別式より通夜に行きたかった。存命のおりは、ご高齢であり親しくお話をする機会はなかった。しかし弔辞で「上海帰りのリル」が好きだったということを知り、一度聴きたかった。アカショウビンのかつてのスナックでの必須レパートリーだったからである。

 上海に行ったのは10数年前だ。仕事で行った。建築ブームで活気があった。現在の〝ゆりかもめ〟から眺めるトウキョウの景色を少し曇らせたような感じだったろうか。そこから郊外の工場へ。途中の食事は簡素なもの。日本でも諸外国でも大都市の周辺はそんなものだろう。

 業界のライバル会社の先輩が定年で長年勤めた会社を辞め、ご自分と御父上の手帳を記録した本を作られた。南京攻略戦の従軍日記だった。全部でなく一部は欠落していた。しかし日本軍がどのようにして行軍し南京に入城したかの貴重な資料だった。国史には記載されない事実がある。その好い例と思えた。先輩氏とはライバル会社を辞めて別のライバル会社に移ったあと我が社で暫く共に仕事をした。しかし、或る日、救急車で入院。事なきを得た。しかし、仕事には影響が出た。経営者とも相談し辞めて頂いた。或る意味で天衣無縫の御性格だったから、特に悪気も持たれず、その後も何度かお会いし近況は聞いている。

 話が逸れた。上海である。いや、「散華の世代から」か。それはともかく、「散華」という言葉は今や死語であろう。先日、高橋たか子さんが亡くなられた。80歳だったろうか。ご亭主の高橋和巳は39歳で亡くなった。京都大学の同窓だった筈だ。大学紛争の渦中から収束に至る頃だった。アカショウビンは高橋和巳の小説で「散華」という言葉を知った。それはさておく。吉田満さんの著作と高橋の「散華」は底で響きあっているだろう。39年の人生と56年の人生の中身は天地の如く違うだろう。しかし心身の底で響き合うものが在り、有る。そこに死者達の魂魄が音叉のように共振する時が有るであろうか。

 特攻の戦艦の中で奮闘し散った兵士が背負ったものが何か。それが戦後を生きた吉田満という男の生涯の十字架だったろう。仏教徒から言わせれば業の如きものである。我が人生の時は既に吉田さんの持ち時間を超えている。生き過ぎたの感がなくもない。そろそろ収束に向けて準備を整えなければならない。

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夏を往く

 8月を前にアレコレ愚想する。多少の縁のあった方の日記を転送自由というので引用させて頂く。吉田満の「散華の世代から」(1981年、講談社)を読み直しながら様々な言説、論説と反響し娑婆の夏を過ぎ行きたい。

 かつての教え子が福島に住んでいる。作家志望だったが卒業と同時に、ふるさとの農協に就職した。なにか考えるところがあったのだろう。学生時代よくラーメンを食べさせてもらったことを忘れていないらしく、毎年、新鮮な野菜を送ってくれる。さすがに去年は届かなかったけれど、今年から復活した。

 夏はトウモロコシやインゲン、青菜など。秋はジャガイモとさつま芋であった。とても食べきれないほどの量である。例年、隣人におすそ分けしていたが、今年は自分たちだけで食べることにした。微妙なためらいがあった。かれが働いている農協は、水素爆発した原発から50キロぐらいのところにあるからだ。

 もしかすると放射能が…。そんな迷いをふり払って「国破れて山河あり」と胸でつぶやきながら、すべてを食べた。せつないほど旨かった。大地の滋味があった。噛みしめていると、教え子の顔が浮かんでくる。ひたむきな目で問い糺(ただ)されているような気がした。

「なぜ沈黙しているのですか。何度かデモにいったぐらいで終りですか。もう戦う気はないのですか」と。
 熱々のジャガイモを食べながら、わたしも胸で答える。
「脱原発の気運が生じるまでデモに行くけれど、世論が盛りあがってきたら小説にもどりたいんだ。いまライフワークの長編を書きつづけている最中で、これを完成させなければ死ぬに死ねないんだよ」

 そんな無言の問答をつづけていたが、つい先月「脱原発社会をめざす文学者の会」が誕生した。呼びかけ人としてわたしも名を連ねることになった。かつて、こうした会に加わったことは一度もない。巷の片隅で働いていた若い時分、文学者たちが声明を出すたびに苦々しい気分になったからだ。文学者の発言がなにか特別で社会的な意味をもつと信じて疑わない、特権的なおごりを感じていた。

 だから作家の端くれになってから30年以上、極力、そうした集団的な行為を避けてきた。戦うべきときは単独で行動する。それが自分なりの姿勢であると思っていた。

 だが初めて「文学者の会」という集まりに参加することになった。事が事である。それに代表が加賀乙彦さんであると聞いたからだ。加賀さんは83歳で、心臓の手術を受けたばかりである。胸にペースメーカーが埋めこまれている。いまさら私心や党派性などあろうはずがない。そのような人が矢面に立たれるからには脇を支えなければならない。

 もう一つ、思うところがあった。JAが脱原発宣言をしたことに感銘を受けていたのだ。米や野菜などわたしたちの日々の糧を担う農協が、もうこれ以上、ふるさとの田畑が放射能汚染されることを拒否すると、はっきり宣言したのだから。これは極めて重いことだ。目さきの政治経済よりも切実な、根源からの声ではないか。

 長い小説を抱えているとき、わたしはよく福島の竹林に隠(こも)っていた。原発から30キロ圏すれすれの山里だった。魚を食べたくなるとバスに乗って小名浜港へ出かけていった。カモメが群れ飛ぶいい港町だった。沖あいで黒潮と親潮がぶつかっているから、暖流と寒流の魚が市場にならんでいた。

 福島原発と東海原発の中間にある五浦海岸も好きだった。天心丸の漁師とアンコウの干物をつまみに酒を飲んだりした。岡倉天心が隠っていた六角堂は津波にやられてしまったそうだが…。

 JAにつづいて、漁業協同組合も脱原発宣言をすればいい。なんの落度もないのに一方的に海を汚染されて、魚を出荷できなくなったのだから。パン屋さんも、リンゴ農家も、そば屋さんも、本屋さんも、いっせいに声をあげるといい。これほどの惨事を体験しながら、若狭湾のほとりでふたたび原子の火が燃えはじめた。喉もと過ぎるとはすぐに忘れてしまいがちだが、それぞれの地場から粘り強く声をあげるしかない。
                   (北海道新聞 2012年11月23日)




                          

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2013年7月20日 (土)

歌人の鎮魂

 毎日新聞7月18日(木)夕刊3版の特集ワイドは「力の限り鎮魂を詠む」の主見出しで歌人の岡野弘彦さん(89)に記者がインタビューした様子をまとめた聞き書きの文章だ。岡野さん(以下、敬称は略させて頂く)の戦中の体験談が痛烈だ。1945年4月に陸軍の一兵士として体験した4月13日夜の「城北大空襲」の回想である。B29が落とした焼夷弾で約20万戸が焼け2459人が犠牲になった事実は初めて知った。「ブスッ、ブスッと列車の屋根に焼夷弾が刺さり、網棚の毛布に火が付いて瞬く間に広がった」という記憶の風景が生々しい。

 翌朝から6日間、2人1組で遺体を空き地に運んだと当時を回想されている。「焼け落ちた民家、防空壕、列車の中から、人も軍馬も。激しく吐いた。「もう桜を美しいとは思えない。思うまい」と胸に誓ったと書かれている。その時を詠んだ短歌が次の作品である。

 幹焦げし桜木の下 つぎつぎに 友のむくろをならべゆきたり

 それから68年が過ぎ、今年4月、インターネット愛好家を集めたイベントで安倍晋三首相(58)は戦車に乗り、観衆の声援に手を挙げて応えた、と記者は書いている。それにコメントを求めたところ岡野は答えず、全く違う話を始めたそうだ。

 「靖国神社がA級戦犯を合祀した後、昭和天皇も今の天皇陛下も行っておられませんね。あるとき、昭和天皇は後世に禍根を残すと言われた」

 岡野と記者は東京・上野公園の並木道を歩きながら会話したようだ。その後、会話が熱を帯びてきたのだろう。都内のホテルに場所を移し〝インタビュー〟が開始されたようである。記者は昭和天皇がA級戦犯の合祀に強い不快感をもらしたという逸話を引き岡野の回答を求めた。岡野は次のように語った。

 「昭和天皇は英明な方です。政治家は昭和天皇のお言葉を考えてみないと。今日、合祀の禍根がまさしく対外的な形で起こっているわけですから」。御用掛として24年間、天皇陛下を身近に知る岡野さんの言葉は重い、と記者は記す。

 記事の途中を少し割愛させて頂きアカショウビンがこの記事でもっとも関心をそそられた箇所を引く。

 中曽根康弘首相(当時)が1985年に靖国神社を公式参拝し翌年は「近隣諸国の批判」を理由に中止した。当時、岡野は後藤田正晴官房長官(当時)に呼ばれて、A級戦犯合祀について意見を聞かれたそうだ。

 「私が師事した折口信夫の学説『未完成霊』について話しました。日本には不遇の死を遂げた未完成霊(みたま)をまつる伝統があった。靖国神社では官軍だけをまつっているが、敵味方なく広くまつってはどうか、というのが折口の考えでした。しかし聞き終わった後藤田さんは『岡野さん、それを実現するには僕が殺されなければならない』と。あれほど優秀な政治家でも踏み切れなかったのです」

 人ほろび 花ほろびゆく 空襲の阿鼻の地獄を 生き残りたり

 この歌も昨年出版した歌集「美しく愛(かな)しき日本」に収められているという。

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2013年7月15日 (月)

此の世の痛苦と水俣の叫び

  昨夜のNHKテレビで水俣が特集されていた。アカショウビンが学生時代に九段の公会堂で観た映画で、その惨状は眼に焼き付けた。此の世の痛苦というものがある。それは近代という時代に人間という生き物が生み出したものだ。歴然とした因果関係がある。その責任を企業は国家を後ろ盾に逃れようと画策する。チッソと東電の姿勢は、それが同じ構造であることを露呈している。昨今の安倍政権の原発継続や改憲論説も戦後日本の世界史のうえでの新たな可能性を閉ざす陳腐で愚劣な退行政策に成り下がっている。ミナマタとフクシマはパラレルだ。そこから脱却する試みが戦後日本が世界史のなかで試みる新たな可能性なのだ。それは仏教哲学で言えば人間の業というものだろう。人間という珍しい種(ニーチェ)は、やはり愚かな生き物でしかないのか。その業は克服し乗り越えられないものなのだろうか。そこで日本国民は人間という生き物の存在の可能性を問う根源的な局面に対面しているのではないのか。

 水俣病の水銀中毒を体現し生き長らえている坂本しのぶさんは此の世の痛苦を生きておられる。その姿と言葉は、ニホンが戦後をどのように通過してきたか根本的な思考を強いる。それは人間という生き物の存在理由を問う。

 1971年5月。チッソ大阪事務所の川村所長に浜元フミヨさんが詰め寄ったという言葉を引かせて頂く。そこには患者に共通する叫びが聴き取れるからだ。著者は石牟礼道子さんによる再現である、と断っているが、それは近代技術による文明社会を生きる便利の裏で犠牲になった人々の生き様の苛酷を抉り伝えている。

 「わたしゃ、恥も業もいっちょもなかぞ。よかですか、川村さん。おらあな、会社ゆきとは違うぞ。自分げで使う会社ゆきと同じ人間がものいいよると思うぞな。千円で働けと云えば千円で、二千円で働けと云えば二千円で働く人間とはちがうぞ。人に使われとる人間とはちがうぞ、漁師は。おるげの海、おるげの田畑に水銀たれ流しておいて、誠意をつくしますちゅう言葉だけで足ると思うか。言葉だけで。いうな!言葉だけば!そらっ、お前の横に座っとるその青年。みてみろ!その青年ばあ。よか青年じゃろが!仏さんのごたる面しとるじゃろが・・・・・雇うかあその青年をば、雇えっ。雇えきるか。片輪ぞ。汝(わる)げの会社に片輪にされた青年ぞ。その青年ばかりじゃなかぞ。もひとりおるぞ。その家にゃ。片輪ぞっ。もひとりも。世間に出てゆくことがならずに家の中におるぞ。もひとりも雇うかあっ。おっかさんもぞ。そらっ。ここに来とらすぞ、おっかさんも。妹もぞ、その妹は、死んだぞおうっ。お気の毒ですむと思うか。お気の毒で。まだおるぞ。そらっ、お前の前の、坂本タカエちゃん。嫁にゆきならずに戻されてきたおなごぞっ。水俣で。子供生まされて。お前が貰うかあっ。お前が、そのおなごば。貰えっ、貰いきるかあっ」。(「民衆という幻像」)  渡辺京二コレクション2 民衆論 所収 (p87~p88)

 注釈はいるまい。この憤怒と痛憤は時を超え現在の、また将来の相馬住民の言葉として相馬弁で吐かれ、吐かれるだろうからだ。

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2013年7月 8日 (月)

胃カメラ初体験と秀作映画

 最近むかしほどオーディオ装置で「音楽」に集中して聴くことが少なくなった。単なる老化か何か悪い病気の兆候のせいかもしれない。たまたま、というわけでもないが本日は会社の定期健診日。最近、飲みすぎなのか体調がよろしくない。食欲がない、長い睡眠がとれない。それを医者から処方された睡眠導入剤(昔は睡眠薬と称していたのではなかったか)はあまり使いたくないのでアカショウビンはアルコール頼りである。今回の検査は胃の具合が悪いので胃カメラなるものを生まれて初めて試みた。正確には胃の内視鏡検査である。貧困サラリーマンにはオプションで1万円近い出資はきつい。しかし手遅れになり高額医療になるよりマシと腹を括った次第。終了後、一応概要は説明してくれたが正確には血液検査と併せて2週間後という。何やら不安なご託宣ではないか。しかし俎板の上の鯉(古い物言いで恐縮)で、いつでもお迎えケッコウと居直るのが貧困中高年の意地というものである。覚悟というものである。

 話が逸れた。音楽である。実は昨日、衝動的に、それは本当に衝動的というしかない。新聞記事か何かで「25年目の弦楽四重奏」(2012年 ヤーロン・ジルバーマン監督)という映画を観てきた。本当なら仕事の残りを仕上げるため社に出なければならなかった。しかし性というものかフラフラとネットで上映館を探し劇場を訪れた。物語がベートーヴェン後期の弦楽四重奏作品131を扱ったものという宣伝文句に惹かれたせいもある。二日酔いを覚ます狙いもあった。期待はしなかった。久しぶりで作品131を聴くだけでもよいと思ったのだ。ベートーヴェンの後期弦楽四重奏作品は多くのファンから神格化されていると言ってもよい。演奏家にとっても生半可に演奏できる作品ではないだろう。それも物語の中ではそれなりによく伝えていた。原作があるかどうか知らない。脚本も好く練ってあるのがわかる。少し練りすぎの不満もなくはないがそれはさておく。音楽の使い方も周到で音響効果も上々。アカショウビンには秀作と言える作品に仕上がっている。クリストファー・ウォーケンという俳優は映画ファンなら「ディア・ハンター」(1978年 マイケル・チミノ監督)という作品を想い起こすだろう。その俳優と久しぶりにスクリーンで出会ったことにもよる。人は老いる。同様に俳優も老いる。しかし人には味が出る。あの若き俳優が年老いて渋い好い演技をする。そこにひとつ感銘した。けれども映像と台詞、俳優たち、スタッフたちを動かしているのは作品131である。それがすばらしかった。音楽の力と言えば伝えたいことの本質を摑まえ損なってしまいそうだ。昨夜は仕事を終えて手持ちのCDを聴いた。きょうの検査もある。しかしアルコールなしでは眠られない。明け方まで横になっても熟睡はできなかった。

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2013年7月 6日 (土)

境界・境域を越える

 柄にもなく、夏には歴史を振り返る衝動に駆られる。怠惰な人生に何事かの意味を探そうという足掻きかもしれない。しかし友人たちが此の世を知らぬ間に去っていることに暗澹とすると此の世の記憶を文字に残しておきたい欲動に駆られるのは性のようなものである。

 その切っ掛けは次のような新聞記事に刺激されることで生じる。4日の毎日新聞夕刊3版の6面の木田元氏のインタビューを昨夜読んだ。生涯をかけたハイデガーに関するものではない。「参院戦に望む」という特集の一つである。見出しは「『時代の勢い』に同調するな」。副見出しは「『分かったふり』せず、疑おう 経済成長最優先でいいのか」。木田氏の経歴は省く。広島の原爆投下を江田島で海軍兵学校の生徒として目撃した、いわゆる戦中派世代である。戦後の苛酷を闇屋として生き延びた生き証人でもある。記者は、子供たちの歓声に耳を傾けながら、〝闇屋になりそこねた哲学者〟は、見出しになった「時代の勢いに同調してはいけません」と繰り返した、と書いている。この言葉の重みは読む者に、どれほど伝わるだろうか知らない。しかし戦後を生き抜いた思索者として、その深みを想像せずに現在を生きられないことは愚想する。先の大戦で、戦艦大和の生き残りである吉田満氏の「散華の世代から」(1981年3月27日 講談社) も再読しよう。

 前後するが同紙の3日の夕刊3版には韓国の作家、李承雨(イ・スンウ)氏のインタビュー記事も掲載されている。久しく小説を読む習慣のなくなったアカショウビンにとって、先日衝動的に魯迅の短編を読んだくらいで、この1959年生まれの韓国の作家の名前も初めて知った。記事によると邦訳は3冊目という。タイトルは「真昼の視線」(岩波書店)。ご自身の文学テーマが「不在の父」という。男子大学院生が名も知らぬ父親を探す旅に出て物語は展開する内容らしい。それはともかく、「書くことは宗教的な行為ではなく、救いの方式。真理を追究する方法ではないかと思っています」と述べたと書かれている。その言や好し。小説に限らず、詩であれ、評論であれ、音楽家の演奏であれ、舞踊、舞踏であれ、芸術や芸事とはそういう行為であると思われる。アカショウビンにとって木田氏の仕事に関すればハイデガーの「芸術作品の根源」(2008年7月10日 関口浩訳 平凡社)を再読する衝動に誘われる。それはゴッホの絵画から展開されている論集だが、その思索は詩や音楽にも及ぶ可能性を秘めている。それはまた国境や他者という境界・境域を超えて思索するという行為である。

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2013年7月 1日 (月)

紫陽花を愛でる

 昨日は休日出勤で宇都宮市へ。或る企業を昨年に続き訪ね紫陽花の群生を観ることができた。雨模様だったが何とか天気はもちイベントに支障はなかった。その企業の周辺は水田が広がり典型的な北関東の風景が広がる。その景色は古代日本の原風景にもつながるものだろう。

 帰宅し先日、友人のIさんから送って頂いたDVDでNHKで放映された「昭和維新の指導者たち~北 一輝と大川周明~」を見る。田原総一朗氏と松本健一氏(以下、敬称は略させて頂く)がゲスト。田原が北と大川の故郷も訪ね近親や弟子達に取材する趣向で番組は構成される。周知のように北の故郷は新潟県・佐渡の両津、大川は山形県の酒田市だ。両地ともアカショウビンはかつて何度か訪れている。しかし両氏の生家を訪れようという衝動はなかった。佐渡は学生時代から社会人になり仕事で佐渡金山や日蓮の流された場所は訪れた。酒田も仕事で訪れたが、本間美術館で宮本武蔵の水墨画を観に行ったくらいで大川の生家を訪れることはなかった。

 番組で北と大川の生涯を辿る中で一度くらいは再訪すべきであることを痛感した。それは明治から大正、昭和の終わりまで此の国の歴史を辿ることは現在と不可分であることを再認したからだ。北の思想と生涯の終わりは深く此の国の近代史を貫いて現在も再考しなければならぬ歴史と文化、民族の急所と心得る。早熟の天才、北の思想を現在の政治家達はどれほど理解しているか知らない。学者だが占領軍から思想的イデオローグとして見做された大川の思想の根本は現在も世界政治の中で生きている。大川曰く。〝アングロサクソン幕府〟に支配されるアジアを解放しなければならぬ。その言や良し。戦後はイスラム教のコーランの翻訳に没頭したことは東京裁判の奇矯な行為で精神障害をきたしたとされる大川の病状が戦後に回復されたことを伝える。弟子達との応接からそれを察する。東西を仲立ちする役割として大川は若い頃から生涯一貫して自らの志操を貫いたのだ。それは現在政治と近代の世界思想の中で改めて再考する可能性を秘めていることは現実の世界を眺めれば一目瞭然である。

 ところが現在の日本政治の現状を見て首相の浅学と政治の現実は何とも心もとない。果たして北や大川の如き世界的視野をもった思想家はどこにいるのだろう。チンピラ右翼や保守論客、同じく左翼の妄言、駄言はテレビやマスコミで横行している。不可欠なのは世界的視野と視線なのだ。それは洋の東西南北を問わない。

 紫陽花と水田の緑を眺めていると、そのような俗世を生きる中で暫しの安らぎを体験できたことを言祝ぎたい。しかし仕事に戻れば日々の喧騒に紛れる。死に至るまで人は足掻き生き抜こうとする。アカショウビンの場合、50年を生きられて十分と了知している。あとは余生だ。しかし、そこで何を為し、世のため人のために生きるか。それは容易いことではない。生きるだけで汲々としているのが現実だ。定年までの一日一日を、これまで以上に全身全霊を駆動させなければならぬことは言うまでもない。しかし、それは歳を重ねるごとに至難なことであることを痛感する日々である。

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