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2013年6月26日 (水)

病を得る

 久しぶりに学生時代の友人N君に電話したら何と甲状腺ガンに罹ったと言う。お前と同じ仲間になったよ、とボソボソと話した。この数年、定期健診は受けていたというが、近いうちに手術をすることになったと言う。不安になっているのだろう。高校の英語教師を仕事とする彼は声が出なくなる事がもっとも不安だ、と語った。本人はもちろん奥さんや娘さんが心穏やかではないだろう。しかし生死に関わる病に罹るということは、遠からずの死を覚悟するということである。アカショウビンは直腸ガンで内視鏡手術をしてから8年が過ぎた。旧友達とは何度も最後の飲み会をしたがなかなか死なない(笑)。ガンでは先輩である。メールでは、あれこれアドバイスしようと思案したが、死を覚悟した時にアカショウビンが繰り返し読み直したのは道元の『正法眼蔵』の「生死」の文章だ。N君は「いやでもいろいろ考えるから手応えのある本を読みたい」とメールで伝えてきた。道元は晩年に病を得てから法華経の神力品を繰り返し読み回復を試みたと伝えられている。不立文字を主張する禅者が法華経の文言の力を借りるというのが面白いではないか。

 「生死」の全文を写しN君へのアドバイスとする。

 生死の中に仏あれば生死なし。また云く。生死の中に仏なければ生死にまどはず。

 こころは、夾山、定山といはれしふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。

 生死をはなれんとおもわん人、まさにこのむねをあきらむべし。もしひと、生死のほかにほとけをもとむれば、ながきを北にして越にむかひ、おもてを南にして北斗を見んとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分もあり。

 生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、仏法の中には、生すなはち、不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅きたらば滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。

 この生死はすなわち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなわち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり、仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心をもてはかることなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。

 仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろずをいとふこころなく、わがこころなくねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。(「正法眼蔵」(4)岩波文庫1993年 水野弥穂子校中)

 ★表記は一部原文を変えてあることをお断りする。仏教者でもないN君には馴染みない文章だろうが、我が国のもっとも深い思索者として繰り返し読み新たな発見がある同書は多くの人々に娑婆に生きる意味に思いを致す水先案内の役割を有する深い思索だ。アカショウビンも繰り返し読み再考し死に至るまでの指南の書としているのでN君にも紹介する次第だ。

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