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2013年6月22日 (土)

忘却と想起

 ネットでピナ・バウシュについて書かれた文章を読んでいると、何とかつて観た「トーク・トゥ・ハー」(ペドロ・アルモドバル監督)の冒頭にピナが出演しているという事が書かれていた。何年か前に同作は観ている。しかし、すっかり忘れていた。レンタルDVDで観直した。確かに冒頭はピナが踊っている。作品は奇想とも言える物語が紡がれる。それは当時も面白く観たことは少しずつ想起された。それは思い出すというより想起したと表したほうがしっくりする。それはワンカット、ワンカット、それと物語を再び新たに想起するというべきもののように思えるからだ。心理学で既視感という概念がある。それは精神分析でも使用されている概念と言ってもよいだろう。私たちの体験と経験は、そのような概念で少し理解できるようなものなのかもしれない。チベット仏教的に言えば前世を覚えている、といった事もそれと通底しているのではないか。

 物語を少し辿ると次のようになる。事故で植物状態になった若い美しい女性ダンサーが病院で介護される。彼女は昏々と眠り続け生きている。その女性を介護する若い男がいる。実は彼は彼女が通っていたダンス教室が見下ろせる向かいの部屋に住んでいる。母親の死までの介護を終えてひとり暮らし。父親は母親を捨て他の女と家族を作りスウェーデンに住んでいるという設定だ。彼はダンス教室で踊る女に恋する。しかし彼は20代から30代くらいの男だが女性と性交渉をしたことがない、という。かといって同性愛者というわけでもない。そういう人物設定は同性愛者であるらしい監督の人間観が作品には投影されているのは心理学や精神分析に馴染んだことの人にはわかりやすい説明だろう。物語の中でもヒロインの女性の父親はセラピストでヒロインに恋する男を同性愛者と異性愛者の狭間で韜晦する曖昧な人物として描いていることからも理解できる。物語は幾つかの愛憎譚を交えて展開する。まぁ、これが大体の物語の筋立てだ。あとは作品に接してもらうほうがよいだろう。

 それはともかく冒頭のピナ・バウシュという稀代のダンサーの姿を改めて見られたのは幸い。物語の最後あたりに出てくる男女のダンスも恐らくピナの振り付けと思われる。それは何とも粋な踊りだ。そのような細やかな演出が監督の才覚を直感する。秀作と言って良い作品であることは観直して確認した。

 そのような経験を言葉にすれば忘却と想起といった何とも大味な表現になる。アカショウビンの貧しい語彙のなかでは、とりあえず、そのように対照させるしかない。それは西洋哲学や学問の用語に倣えば存在論と認識論、精神分析の成果と相通じる考察でもある。アカショウビンの思索の中では仏教哲学や儒学、神道の考察、思索とも絡んでくる。そこから果たして新たな思索の地平が競り上がってくるだろうか?

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