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2013年4月14日 (日)

有の全体と久しぶりの映画3連発

 ハイデッガーの「存在と時間」の難解さを理解するために、その後の講義録を読むのは娑婆での楽しみの一つだ。

  この有るもの[存在するもの]全体の知は、いまや、自らが本来的な端的な知であることを知る。それが知ろうとするものは、有るもの[存在するもの]の仕組み以外の何ものでもない。そして、この仕組みとはいまではもはや、対象として知に相対することはなく、知そのもののうちで生成する。このような自己自身への生成こそが、絶対的な有るもの[在存するもの〕である。

 ハイデッガーが未だに読み解かなければならない高峰の一つであることは、この「シェリング講義」の箇所を読めば、その深淵はブラックホールに引き込まれるが如し。さらに熟読玩味することは日常の間を縫って読み解く楽しみの一つだ。

 会社勤めの日常と体力の衰えに古典の読み直しや映画作品を観ることも。先日は仕事の憂さを晴らそうとレンタルDVDを借りてきた。友人のN君がイタリアのベルトルッチ監督の新作の試写に行くとメールを送ってきたので旧作を1本「リトル・ブッダ」(1993年)、「緋牡丹博徒 鉄火場列伝」(1968年 山下耕作監督)、「なくもんか」(2009年 水田伸生監督)の3本。最近は借りてきた幾つかの作品を1週間かけても全部観られずに返すこともしばしば。ところが今回は3本を2日間で見終えた。先ず土曜日に「リトル・ブッダ」。公開されて以来ほとんど観る機会は何度かあっただろうが忘れていたカットも新鮮。ベルトリッチの語りの巧みさというものを改めて実感した。仏教の生まれ変わりの思想を頑なに継承するブータン仏教の詳細が映像と僧侶の説明を通して面白い。それはキリスト教国である米国で現代の世相とも絡ませた物語の展開がベルトルッチ節というものだ。

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