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2013年4月26日 (金)

朝の妙音

 バッハの無伴奏チェロ組曲は、眠られない夜に時に眠りへの誘いとして聴くことがある。今朝はテレビで映像と共に聴く。チェリストにとってこの作品はカザルスがバッハの遺稿から見つけ出し、現代に新たな妙音を響かせることでアカショウビンを含め此の世に棲み苦しみや喜びの日常に一条の光のように届く。

 映像ではかつて初々しいモーツァルト弾きとして日本のファンを魅了した、その頃はピリスと表記されたピアニストがピレシュとして表記され、歳を重ね成熟したピアニストとして現れた。今年3月に都内のホールでの録画だ。ベートーヴェンのチェロ・ソナタを聴きながら朝の妙音を拝聴する。此の世の不可思議さは数十年の時の変化の中に霊的な響きと姿として現れる。現実に生きる時間は時に摩訶不思議なはたらきをする。それが現在を生きる幽かな力ともなる。日常の閉塞感とまるで永遠に続きそうな退屈と表する時空間のなかで、それはハイデッガーの顰に倣えば神性を帯びたものとして現れる。

 人の生き死には日常への裂け目として訪れ体験される。彼岸に渡ったNとの縁は妙音を介して安らぎと幽かな力として我が身に届く。

 ハイデッガーの思索は現代のドイツでも殆ど神秘説のように不可解なものとされていると評した論考をかつて読み、然もありなんと感得したことがある。先日の出張に携帯し抜き読みした「『ヒューマニズム』について」(渡邉二郎訳 ちくま学芸文庫 1997年6月10日)を何度目か読み、しかし、そうではない戦前から戦中、戦後に持続されたハイデッガーの捉えた「存在」への飽くなき思索は刺激と挑発、啓発となってこちらに熟考を強いる。それは人間という生き物が負う、仏教的に言えば業(カルマ)の如きものである。その彼我の思索の差異は個々人が此の世という、ハイデッガーが<世界内存在>という語で展開した一人の思索者の生涯の思索として我々が継続しなければならないものと心得る。

 西洋音楽の音の響きは思索者の思索を異国語に翻訳され読む時に実に霊的な妙音として響き合う。

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