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2013年3月31日 (日)

あれこれ雑感

 仏教者の中でも道元、日蓮、親鸞の思想はアカショウビンの生涯の関心の的である。親鸞に関しては吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)や三國連太郎の論考は痛烈な刺激になる。

 「生と死」、「空と浄」といった主題はアカショウビンの手に負えるものではない。しかし吉本や三國、五木寛之の論考を読むと禅者や親鸞、蓮如など優れた仏教者の境地には襟を正す。

 唐代の中国禅に造詣の深い、入矢義高の「増補 自己と超越」(岩波現代文学 2012年2月16日)は、中唐禅は日本のようにセクショナリズムが殆どないことを指摘する。では他の宗派はどうなのか。唐末からの禅者たちの堕落も指摘しているが、仏教の真髄はどのような仏者に継承されたのか。日本では沢庵か白隠か鈴木正三か、鈴木大拙か?仏教者と無辜の民草の信の違いは何か?吉本隆明には「信の構造」という著作もある。信を構造として分析する動機と意図は親鸞が機縁になっている。浄土教と禅者たちの経典の比較はどのように展開されるのか。吉本にしても入矢にしても信者とは異なる立場で、それはどのように自覚され論考に限定が設定されているのか。今後も継続して思索を重ねたい。

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