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2013年3月 6日 (水)

変奏する

 朝起きて、テレビを見るとバッハのマタイ受難曲の「神よ、あはれみたまへ」を4人の日本人の金管楽器奏者が演奏している。その次は「トッカータとフーガ ニ短調」。左端の奏者がリーダーでソプラノ・サックスのような。その隣はアルト・サックスだろう。右側二人の楽器はバリトン・サックスとバス・サックスだろうか。通常オルガンで奏される作品を異なった楽器で奏されるのを聴くのは一興である。続いて「主よ、人の望みの喜びよ」。これを舞台に登場しながら歩いて奏する。演出だろうが意図は不明。しかし、この編曲された作品が会場の空間に放たれる音と映像は、これまた一興だ。

 コンサートのような会場での楽器や声の発する音と空間は此の世の不可思議と言ってもよい現実を生成する。そこに視聴者は自らの存在を共振させる。そこで新たな何事かが生ずる。アカショウビンのような東洋の島国の民にとってもバッハは特別な音楽家だ。若い頃に聴いた「マタイ受難曲」や「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、パルティータ」は此の世の恩寵のように聴いた。その作品が編曲されて通常演奏される楽器と異なる楽器で演奏されるのを観聴くと何とも新たな興趣を看取する。日々の仕事の憂さを晴らすには、このような時間が貴重である。通常チェンバロやピアノ、オルガンで奏される「ゴルトベルク変奏曲」を金管楽器で演奏している。これまた一興。

 聴き慣れた西洋古典音楽が、このカルテットのような金管楽器で演奏されるのを聴くと、米国で展開されたジャズまでは、もう一歩で融合しそうな、しかし異なる次元は跨げないような思いもする。しかし、変奏は変奏である。バッハの作品が変奏として編曲され奏されるのはジャズという音楽ジャンルの有する懐の広さを示しているようにも思う。ジャズ・ピアニストが奏する「平均律クラヴィーア曲集」もかつて聴いて面白かった。バッハの音楽の秘める奥行きというものは、このような可能性を秘める。

 演奏家たちは演奏に集中するあまり酩酊するかのような仕草を示す。それは音楽が憑依や狂気、憤怒、崇高といった人間の有する心の表現、表出、あるいは噴出と言ってもよい行為であることに気付かされる。

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