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2013年3月11日 (月)

奄美の唄者たち

 「ジャンゴ」を観たあとN君と駅近くの焼肉屋で食事をし帰宅して深夜のテレビを見ると我が故郷の人気歌手、元(はじめ)ちとせさん(以下、敬称は略させて頂く)のコンサートを放映している。その歌詞を聴いて何とも嫌な気分になった。説教臭い歌詞に最近の若者ソングの甘ったれた世間知らずの臭い歌詞に思わず憤りが胸を突くのだ。午後に観た映画は西部劇である。それは「常識」からすれば残酷とか野蛮とか良識ある人々からすれば眼を背けたくなる内容だ。しかし面白かった。私たちが中学生のころ夢中になったマカロニ・ウェスタンと米国の正統派西部劇から蔑称された作品に対するオマージュという触れ込みは納得できたからだ。そこではドンパチの、例えばマキノ雅弘監督のヤクザ・任侠映画の中で高倉健の最後の斬り込みシーンの米国版とも思われる破天荒のシーンが、これでもか、これでもか、と繰り返される。しかし、それは或る意味で不快感と同時に胸のすく開放感を与えてくれる。それに耐えられる観客と耐えられない観客がいるだろう。小生は満腔の賛同はできなかったが中学生の頃に観たマカロニ・ウェスタンの面白さの幾らかを想い出した。
 それはともかく。元の声の裏声は奄美の島唄の唄者たちの技の面白さの一端を洗練させて表出している。しかし、それは小生のような中高年の歌好き、音楽好きの同郷の者を納得させることができなかった事は伝えなければならない。元は19歳の頃に上京したらしい。それから現在の成功があることは悦ばしいことだ。しかし同郷の唄者として、朝崎郁恵の境地に元は少なくとも現在は到達していない。朝崎の声をかつてCDとテレビで見聞きして「歌壷」とでも評したい奥深さに驚愕した。それが元や中の洗練された声に聴き取ることができないのは残念である。
 あれから数年が経っている。元も中(あたり)も成長し成熟したことであろう。元は母親にもなったと聞く。これから更に成熟することだろう。しかし小生には朝崎の声と裏声に聴き取った同郷の者として看取する奥深さを聴き取ることは先ほど聴いたコンサートではできなかった。つまらない説教的な歌詞など蹴飛ばして元には奄美の魂の底まで到達してほしいと心から願う。商業的に売れていけば朝崎も含めてモダン楽器とも共演しなければならない。しかし奄美の島唄は蛇皮線がもっともよく共振する伝来の楽器だ。しかし魂の声には蛇皮線も必要ないと思う。声だけで勝負できるのが本物の歌い手というものだろう。人という生き物は成熟し不可思議な境地に至る。歌手だろうが、画家だろうが市井の人々でさえ、それは有りえることは言うまでもない。そこには娑婆で生きる喜怒哀楽を超える意志が不可欠と思われる。元にも中にも同郷の者として、そこまで至る精進と成熟を心から期待したいのだ。それは商業主義に塗れながら公衆道徳などというシガラミから抜け出ることでしか達せられない境地であろう。何とも身勝手な感想で恐縮するが、それは幽かな可能性に到達する才能を持った者たちに対する祷りのようなものであることは伝えておきたい。

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