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2013年3月31日 (日)

あれこれ雑感

 仏教者の中でも道元、日蓮、親鸞の思想はアカショウビンの生涯の関心の的である。親鸞に関しては吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)や三國連太郎の論考は痛烈な刺激になる。

 「生と死」、「空と浄」といった主題はアカショウビンの手に負えるものではない。しかし吉本や三國、五木寛之の論考を読むと禅者や親鸞、蓮如など優れた仏教者の境地には襟を正す。

 唐代の中国禅に造詣の深い、入矢義高の「増補 自己と超越」(岩波現代文学 2012年2月16日)は、中唐禅は日本のようにセクショナリズムが殆どないことを指摘する。では他の宗派はどうなのか。唐末からの禅者たちの堕落も指摘しているが、仏教の真髄はどのような仏者に継承されたのか。日本では沢庵か白隠か鈴木正三か、鈴木大拙か?仏教者と無辜の民草の信の違いは何か?吉本隆明には「信の構造」という著作もある。信を構造として分析する動機と意図は親鸞が機縁になっている。浄土教と禅者たちの経典の比較はどのように展開されるのか。吉本にしても入矢にしても信者とは異なる立場で、それはどのように自覚され論考に限定が設定されているのか。今後も継続して思索を重ねたい。

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2013年3月27日 (水)

朝の悦楽

 朝の衛星放送のクラシック番組で諏訪内晶子さん(以下、敬称は略させて頂く)がブラームスとメンデルスゾーンのピアノ三重奏を演奏しているのを聴いている。久しぶりに眼にする諏訪内の姿と演奏を言祝ぎたい。

 数年前に会社を辞めてぶらぶらしていた頃に諏訪内の演奏会のリハーサルが無料で横浜で行われる事を知りルンルン気分で足を運んだ。曲目はベートーヴェンの三重協奏曲。アカショウビンの大好きな曲である。特に三楽章の転調のところは何度聞いても厭きない。日々の仕事に倦み疲れた時に通退勤の電車の中でフリッチャイ盤を録音してたまに楽しんでいる。

 その時のオーケストラは売り出し中のパーヴォ・ヤルヴィ指揮するドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン。実はこのオーケストラを生で聴きたかったこともある。退職して時間をもてあましているなか、これ幸いと出かけた。オーケストラはリハーサルが面白いのである。それは若い頃にフルトヴェングラーやワルターのものをレコードやFM放送で経験した。それを生で楽しめるということは此の世の悦楽というものである。

 テレビではチャイコフスキー・コンクールで優勝した少女時代の頃からすっかり成熟した女性に変貌し演奏に集中している姿が素晴らしい。誠に名手たちが音楽に全身全霊で集中している姿というのは眼福である。それを眼にする時間とは何とありがたいものであろう。そこでは時が何とも豊かに熟している。日々の仕事に倦み疲れる日々は時に癒される。娑婆を生きる喜怒哀楽の間に、それは何と貴重な時であることか。

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2013年3月19日 (火)

中国について

 辺見 庸氏(以下、敬称は略させて頂く)の『国家、人間あるいは狂気についてのノート』所収の鵜飼 哲との対談で辺見は興味深い中国観を述べている。「吉本隆明さんとどうしても合わないのが中国の話でした」(p173)。口を極めて中国を罵る吉本に対し辺見は「吉本さん、一度でいいから上海に行ってみましょう」と語ったらしい。「正誤善悪と別に事実というものが巨大なものとして厳然としてある。その圧倒的な事実の存在を、吉本さんは身体的な経験としてわかっていないんです」。この話題は、辺見が吉本のヘーゲル、マルクス批判として挙げた「アフリカ的」という概念を引いて、それなら一度くらいアフリカへ行ってみたらいいじゃないですか、と話すと吉本が頭をかきながら「水が変わるとお腹を壊すんだ」というオチがついているのだが。

 それはともかく、辺見の中国論として昨年の著書『死と滅亡のパンセ』では武田泰淳の「滅亡について」が引用されていてアカショウビンも同作を読みあれこれ愚想を重ねた。武田も辺見も中国で何年かを暮らし、その「巨大なもの」を身体的に経験した。辺見は、戦中でさえ日本人は中国に対する敬意のようなものがあったのが現在は失われていると危機感を述べる。

 そして過去の思想家の中で最も注目すべき人物として魯迅を挙げる。それは実に共感できる指摘だ。竹内 好が徴兵された時に書き残したのは『魯迅』である。日本とも深く関わった魯迅の存在は恐らく中国でも日本でも新ためて読むべき人物であろうと思う。竹内逝き、武田逝き、「身体的に」中国とあいまみえた人物はいずこにありや。魯迅の作品を読み直しアカショウビンも中国や人間について改めて愚想を巡らしてみようと思う。

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2013年3月13日 (水)

日々雑感

 朝の衛星放送でドレスデンの少年合唱団のボーイ・ソプラノを聴きながら、先日から仕事の合間に読み出した辺見 庸氏(以下、敬称は略させて頂く)の新刊、「国家、人間あるいは狂気についてのノート」(2013年2月10日 毎日新聞社)について何事か書かなければならないと思いながら夕刊で山口昌男の死を知り追悼文を読み、学生時代に山口のトリック・スター論やモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」論を面白く読んだことなどを思いだし今も変わらぬ当時の貧乏生活が想い出された。まったく偶然だが昨日は、そのころ棲んでいた下宿の近くを仕事で訪れた。

 辺見の近刊は書き下ろしの文章は最初の二つと最後の2章で、他は既刊の著作や未発表の文書を編んだものだ。冒頭の文章は昨年亡くなった吉本隆明が感想を述べた三島由紀夫の割腹死への感想を読み違えていたという文章だ。それが面白く勢いで半分ほど読んだのだった。かつて読んだ文章の幾つかを読み直し辺見の現在が現実の政治状況や世相と新たに木霊する。かつて開高 健は全ての書物は既に書かれたと書いていた筈だ。小説家や作家が書いたものは何やら創造といったものというより、あまたある事柄の異なる人々による、ニーチェの言う「等しきものの永劫回帰」ではないのか。しかし個々人は、それぞれの生から何事かを新たに文字にし言葉を発する。それもまたニーチェからすれば等しきものとして括られるものに過ぎないのかもしれない。

 花粉症がまたぞろ発症し「頭重」という症状の中で愚想を巡らす。昨夜はレンタル・DVDでロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の新作「ファウスト」を途中まで観た。島尾ミホさんを撮った作品で日本にも強い関心を持つ彼が今回はドイツの中世を舞台にドイツ語で拵えた作品だ。それは難解で娯楽映画ではない。それに疲れて昨夜は床に就いたのだった。本日は返却日で新たに借りなければならない。

 テレビはスウェーデンの合唱団が日本語の作品を歌い番組は終了した。

 不眠の夜を少しのウィスキーで凌ぎ、さぁ、これから仕事に出かけねばならない。テレビではフェルメールの「牛乳を注ぐ女」をアニメで描いている。この作品は来日した時に2回通って驚愕した。あれこれ書いておきたい事は積もるばかり。そのうちクタバルだろうがまだ余命を宣告されたわけでもない。しかし、それほど残された時があるわけでもないことは自覚しているつもりだ。

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2013年3月11日 (月)

奄美の唄者たち

 「ジャンゴ」を観たあとN君と駅近くの焼肉屋で食事をし帰宅して深夜のテレビを見ると我が故郷の人気歌手、元(はじめ)ちとせさん(以下、敬称は略させて頂く)のコンサートを放映している。その歌詞を聴いて何とも嫌な気分になった。説教臭い歌詞に最近の若者ソングの甘ったれた世間知らずの臭い歌詞に思わず憤りが胸を突くのだ。午後に観た映画は西部劇である。それは「常識」からすれば残酷とか野蛮とか良識ある人々からすれば眼を背けたくなる内容だ。しかし面白かった。私たちが中学生のころ夢中になったマカロニ・ウェスタンと米国の正統派西部劇から蔑称された作品に対するオマージュという触れ込みは納得できたからだ。そこではドンパチの、例えばマキノ雅弘監督のヤクザ・任侠映画の中で高倉健の最後の斬り込みシーンの米国版とも思われる破天荒のシーンが、これでもか、これでもか、と繰り返される。しかし、それは或る意味で不快感と同時に胸のすく開放感を与えてくれる。それに耐えられる観客と耐えられない観客がいるだろう。小生は満腔の賛同はできなかったが中学生の頃に観たマカロニ・ウェスタンの面白さの幾らかを想い出した。
 それはともかく。元の声の裏声は奄美の島唄の唄者たちの技の面白さの一端を洗練させて表出している。しかし、それは小生のような中高年の歌好き、音楽好きの同郷の者を納得させることができなかった事は伝えなければならない。元は19歳の頃に上京したらしい。それから現在の成功があることは悦ばしいことだ。しかし同郷の唄者として、朝崎郁恵の境地に元は少なくとも現在は到達していない。朝崎の声をかつてCDとテレビで見聞きして「歌壷」とでも評したい奥深さに驚愕した。それが元や中の洗練された声に聴き取ることができないのは残念である。
 あれから数年が経っている。元も中(あたり)も成長し成熟したことであろう。元は母親にもなったと聞く。これから更に成熟することだろう。しかし小生には朝崎の声と裏声に聴き取った同郷の者として看取する奥深さを聴き取ることは先ほど聴いたコンサートではできなかった。つまらない説教的な歌詞など蹴飛ばして元には奄美の魂の底まで到達してほしいと心から願う。商業的に売れていけば朝崎も含めてモダン楽器とも共演しなければならない。しかし奄美の島唄は蛇皮線がもっともよく共振する伝来の楽器だ。しかし魂の声には蛇皮線も必要ないと思う。声だけで勝負できるのが本物の歌い手というものだろう。人という生き物は成熟し不可思議な境地に至る。歌手だろうが、画家だろうが市井の人々でさえ、それは有りえることは言うまでもない。そこには娑婆で生きる喜怒哀楽を超える意志が不可欠と思われる。元にも中にも同郷の者として、そこまで至る精進と成熟を心から期待したいのだ。それは商業主義に塗れながら公衆道徳などというシガラミから抜け出ることでしか達せられない境地であろう。何とも身勝手な感想で恐縮するが、それは幽かな可能性に到達する才能を持った者たちに対する祷りのようなものであることは伝えておきたい。

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2013年3月 9日 (土)

I・T君へ

 きょう、高校以来の同窓生の映画好きのN君から只券を頂いてN君と今年のアカデミー脚本賞他を受賞したクエンティン・タランティーノ監督の「ジャンゴ」を観てきたよ。我々が中学時代に夢中になったマカロニ・ウェスタンへの監督のオマージュという触れ込みの作品だから観られずにはいなかったのだよ。3時間近くの長尺だが多少の冗長さを感じただけで面白く観られたのは監督の手腕といってもよいだろう。監督が若い頃に観たという「続・荒野の用心棒」に主演したフランコ・ネロも出てくる。久しぶりに、中学時代の記憶が走馬灯のように想い出されたよ。ゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞の受賞部門が脚本賞と助演男優賞で共通していることは偶然のようにも思われない評価だと作品を観て思ったね。確かに妥当な評価だと思えたのは小生の単なる思い込みに過ぎないだろうが、それは観てのお楽しみにしておきたい。

 しかし、それほどの高い評価の作品としても、マカロニ・ウェスタン(これは淀川長治さん《(以下、敬称を略させて頂くけれども》の命名らしいが、米国ではスパゲッティ・ウェスタンと蔑称されていたらしい)へのオマージュとしては100%納得するわけにはいかなったね。それは小生が、その後も亡くなるまで関心を持ったセルジオ・レオーネという監督の作品にはあったカッコ良さと、英語ではヒップというらしいが、日本語では粋とでも云いたい品がなかったのが残念だったのだよ。C・イーストウッドやリーヴァン・クリーフの品格とも風格とでも言いたいカッコ良さがなかったのだね。それはないものねだりだろうけど、今は亡きリーヴァン・クリーフや未だ健在のC・イーストウッドの感想を聞いてみたいと切に思ったよ。

 それはともかく、君も劇場まで足を運び映画なんて観ることは殆どないようだけど、我々が夢中になった中学時代の幾つかのシーンがフラッシュ・バックされたことを言祝ぎたいのだ。作品は、いずれレンタルDVDになるだろうから是非観て頂きたいと思う。しかし、やはり映画は観客の一人として劇場で楽しみたいものだ。お仕事は忙しいだろうが、たまには息抜きして少年時代の思い出に浸ることも悪くないと思うよ。

  一つ面白かったのは冒頭の音楽に監督は「さすらいのジャンゴ」という曲を英語版で使っていることだったね。アカショウビンはあのイタリア語をレコードで繰り返し聴いて覚え、我々が共に夢中になったジリオラ・チンクェッティのカンツォーネにも親しんでいったわけだ。小生は、それが昂じてイタリア・オペラにまで、のめりこんでいったけど、それは亡きS次郎を含めて、その後のそれぞれの人生の違いでしかないだろう。

 しかし中学時代に夢中になった、いろいろな事は此の歳になっても時に鮮烈に甦ることが不思議だよ。10月に故郷に帰られるかどうか分からないけど、帰られたら少年時代を過ごした場所を辿りたいと思うけど、そういうノスタルジーはセンチメンタルに過ぎるかもしれない、と幾らか反省もするような分別心もはたらくのは年の功かもしれないね。

 何度も話したけれど此の歳まで生きられたのは余生と自覚している。いずれ我々も鬼籍に入る。その時はS次郎らと昔話と純情な恋物語で盛り上がりたいものだね。

 それはともかく。健康に留意され長生きされ、早く孫の顔をみられることを心から祈っているよ。

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2013年3月 6日 (水)

変奏する

 朝起きて、テレビを見るとバッハのマタイ受難曲の「神よ、あはれみたまへ」を4人の日本人の金管楽器奏者が演奏している。その次は「トッカータとフーガ ニ短調」。左端の奏者がリーダーでソプラノ・サックスのような。その隣はアルト・サックスだろう。右側二人の楽器はバリトン・サックスとバス・サックスだろうか。通常オルガンで奏される作品を異なった楽器で奏されるのを聴くのは一興である。続いて「主よ、人の望みの喜びよ」。これを舞台に登場しながら歩いて奏する。演出だろうが意図は不明。しかし、この編曲された作品が会場の空間に放たれる音と映像は、これまた一興だ。

 コンサートのような会場での楽器や声の発する音と空間は此の世の不可思議と言ってもよい現実を生成する。そこに視聴者は自らの存在を共振させる。そこで新たな何事かが生ずる。アカショウビンのような東洋の島国の民にとってもバッハは特別な音楽家だ。若い頃に聴いた「マタイ受難曲」や「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、パルティータ」は此の世の恩寵のように聴いた。その作品が編曲されて通常演奏される楽器と異なる楽器で演奏されるのを観聴くと何とも新たな興趣を看取する。日々の仕事の憂さを晴らすには、このような時間が貴重である。通常チェンバロやピアノ、オルガンで奏される「ゴルトベルク変奏曲」を金管楽器で演奏している。これまた一興。

 聴き慣れた西洋古典音楽が、このカルテットのような金管楽器で演奏されるのを聴くと、米国で展開されたジャズまでは、もう一歩で融合しそうな、しかし異なる次元は跨げないような思いもする。しかし、変奏は変奏である。バッハの作品が変奏として編曲され奏されるのはジャズという音楽ジャンルの有する懐の広さを示しているようにも思う。ジャズ・ピアニストが奏する「平均律クラヴィーア曲集」もかつて聴いて面白かった。バッハの音楽の秘める奥行きというものは、このような可能性を秘める。

 演奏家たちは演奏に集中するあまり酩酊するかのような仕草を示す。それは音楽が憑依や狂気、憤怒、崇高といった人間の有する心の表現、表出、あるいは噴出と言ってもよい行為であることに気付かされる。

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