命日
先週は日帰り出張のつもりが、長野まで移動し一泊。久しぶりにカラオケで「舟歌」を唄い温泉にも浸かった。以前のような仕事のマンネリに再び戻ることは幸いなのか不幸なのか?しかし、仕事とはいえそうもない労働で糊口を凌ぐよりはマシだと実感する。昨日も神奈川県の藤沢で仕事。遅い新年会で一杯飲み帰宅。床に入って聞いた志ん生の落語を目覚めて聴き直し床を離れた。見残したレンタルDVDを最後まで観た。きょうが返却日なのだ。先日亡くなった大島渚の作品二本と一緒に借りてきた米国製ボクシング映画である。なかなか面白かった。スターローンの『ロッキー』を意識した内容で、あれより洗練した仕上がりで楽しめた。米国の親子関係、兄弟、恋人との確執が物語の展開となる。異国でも家族の確執には共通するものがある。我が身を振り返り実感する。
朝のテレビでは若い女性ヴァイオリニストのリサイタルを放映している。それを聴きながら、この一週間を振り返る。演奏はクライスラーの「美しきロスマリン」で心和む。このひと時の貴重は此の世に棲む至福の時ともいえる。
昨日は一昨年、32歳で逝った同僚の女性の命日である。昨年10月に遅い納骨式に出席し、お母様とも久しぶりにお会いした。先日、寒中見舞いのハガキが届いた。クリスチャンである彼女が旧約のダビデの言葉をを引用されている。「あの子を呼びもどせようか。わたしはいずれあの子のところへ行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰ってくることはない」と書かれて、「この言葉が胸にくる日々です」、と記されている。母一人、娘一人の我が子を失った女性の哀しみはいかばかりか。
此の世に棲む日々は喜怒哀楽である。しかし時に死の淵を覗く思いにも浸る。若いヴァイオリニストの演奏を聴きながら一人娘を失った母親の葉書に返事を書かなければ、と呻吟する。旧約の出典は何か。若い頃に読んだ旧約は文庫の「エゼキエル書」だった。ユングを読んでいて出典にあたったのだった。中野の3畳の下宿で悶々と日々を暮していた頃に何か心の窮屈に活路を開きたかったのだろう。
そのような愚想を一人娘を失った母親の苦悶に共振させようとするが果たして響きは生じるだろうか。
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