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2013年2月28日 (木)

訃報

 先週の土曜日の夕方、業界関係者の訃報のFAXが入り昨日、告別式で千葉へ。87歳だから大往生と思うが家族にとっては一日でも長生きしてほしいことだったろう。

 22日の午後には女優の光本幸子さんが亡くなられたことを新聞記事で知った。食道ガンで69歳とのことだ。先々日だったか、NHKテレビで放映している「山田洋次監督が選んだ100本の日本映画」の99本目を放送していた。「お日柄もよく ご愁傷さま」(1996年 和泉聖治監督)。現在、上映中の山田監督の「東京家族」で老夫婦役を演じている橋爪功氏と吉行和子さんが、そこでは中年の夫婦役を演じている。恐らく「お葬式」(1984年 伊丹十三監督)を意識していたのではないか。和泉作品は少し冗長気味。笑いも少し空振りな感じで、これが初主演作品という橋爪氏に対する和泉監督の演出がぬるいように思えた。作品の完成度では「お葬式」は日本映画史に残る秀作で、それと比較するのも酷な話だが。

 その放送が終了する前に案内役から次回の100本目が「男はつらいよ」の光本幸子さんが初代マドンナを演じた作品を山田監督が100本目に選んだことが知られた。山田監督も番組に登場する予定というから収録はどうなっているのだろう。追悼番組になると思われるが。光本さんご本人も残念なことで心からお悔やみ申し上げる。

 実は光本さんが脇役で出演された作品で、それに気づかず後で知った作品がある。山田監督の「隠し剣 鬼の爪」(2004年)である。アカショウビンは、この作品を山田洋次監督のベスト5に入れてもよい秀作と確信する。山田監督が時代劇に新たな世界を開いた何度観ても感嘆する作品だ。ここに光本さんが鬼のような女として出演しているのだ。「男は~」のヒロインの匂うような姿からすれば驚愕する役柄で、まさかとも思った。しかし、女優はそのような役柄もこなし芸域を広げ成熟していくものなのだろう。あれから出演されている映画も舞台も知らず突然の訃報を知った。これからの益々の成熟をスクリーンで観たかった。心から哀悼の意を表する。

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2013年2月26日 (火)

「東京物語」と「東京家族」

 先週の土曜日、招待券を戴いたN君と会い、お礼を兼ねて一杯やりながら「東京家族」の感想を話した。日曜日は山田洋次監督がオマージュを捧げた小津安二郎監督の「東京物語」をレンタルDVDで久しぶりに観直した。やはり何度観ても味わい深い作品だ。笠 智衆の役を「東京家族」では橋爪功氏(以下、敬称は略させて頂く)が演じているが、笠の老いの枯れた演技というのか姿と振る舞いは実に独特で改めて見て感慨を新たにした。橋爪のアクのようなものが笠にはない。小津に徹底して鍛えられたであろう笠という稀代の役者の持つ何事かが作品を見れば、こちらを挑発してくる。

 「東京家族」の配役と物語が山田流に翻案されているのは「東京物語」で末娘の香川京子が演じた役を隣の娘に代え、大阪志郎を妻夫木聡に、寡婦である原節子を妻夫木の恋人である蒼井 優に変えているところだ。また「東京物語」での故郷が尾道から「東京家族」では瀬戸内海の島に変えられている。そのような山田流の設定の変え方も作品を新鮮な味わいにしている。戦後の小津作品に通低している戦争の陰がないのは或る意味で両監督が生きた時代の違いでしかないともいえるだろうが、その違いは我々が想像する以上に作品の秘める陰影に影響しているようにも思われる。それは改めて考察してみよう。

 ドイツのヴィム・ベンダースはじめ諸外国の優れた映画監督に注目されて今や世界的な巨匠に祭り上げられた小津の代表作ともいえる作品のリメイクに挑戦した山田監督の敬意は何度か見直して新たな感慨が湧き出ることと思う。

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2013年2月17日 (日)

ドイツ映画と白隠展

昨日、高校以来の友人N君から頂いた招待券で「東ベルリンから来た女」(クリスティアン・ペッツォルト監督 2012年)というドイツ映画を観に渋谷まで赴いた。ところが次の上映まで時間が空き、これ幸いとばかりに同じ建物の美術館で開催されていた「白隠展」を訪れた。白隠の達磨絵は近世美術の中で実に個性的で専門教育を受けたこともない禅者の偏執さえ看取する作品群だ。還暦を過ぎて絵の創作意欲は益々盛んになる。それを展示作品はよく構成していた。映画の上映まで約1時間半で忙しない鑑賞だったが主要作品は幾らか熟視することができたことは幸いだった。

 江戸時代の臨済宗中興の禅師として高名な白隠慧鶴(1686年~1769年)は、諸国行脚の過程で長野県飯山の道鏡慧端(正受老人)から厳しい指導を受けた。そこで悟りを完成させたと伝えられている。絵の専門的な技術は学ばなかったようだが達磨像に対する執着は雪舟の「慧可断臂図」なども想起させられる。当時の水墨の見事さは日本人が中国から多くを学び傑出した絵師を輩出させた。白隠の病的で時にユーモラスな作品は晩年の見事な「大燈国師像」や女郎のお福を優しく面白く描いた作品を観ればよくわかる。特に「大燈国師像」は晩年の作で下書きから絵筆ははみ出ているが墨の濃淡の対照と全体の構図は絶妙なバランスを保っている。「白澤」という霊獣も当時の庶民には広く知られていたという。その生き生きとした印象は画集では伝わるまい。ここ数年でみたフェルメールの幾つかの作品もそうだった。作品のサイズ、絵の具の厚みなどによる細やかな色彩の変化は作品に正面しなければ実感できないことを痛感した。

 白隠もそうである。禅師として尊崇を受けながら晩年は憑かれたように達磨や経典を賛として書き込むことで祖師たちの精神や生き方に迫りたかったのだろう。最近たまたま読んでいる中国唐代の禅者に詳しい入矢義高氏の著作「増補 自己と超越 禅・人・言葉」(2012年2月16日 岩波現代文庫)や「増補 求道と悦楽 中国の禅と詩」(2012年1月17日 同)を読むと道元以来の禅者たちが馬祖や雪峰、玄沙など中国禅の研究と併せて禅が日本でどのように展開されたかを眺望できる。その思索は改めて継続し発語していきたい。

 そそくさと会場を出て映画劇場に向かった。大劇場ではなく音響効果も良い劇場だった。以前にも来ているはずだが暫くぶりで迷った。作品には集中できた。ベルリンの壁が崩壊する9年前の東ドイツの田舎町の状況を描いた佳作だ。いかにもドイツ映画らしいといえば大味な感想だが当時の医療事情なども丁寧に描いてシリアスで緊張感に満ちて静謐な作品だった。

 本日は「東京家族」(山田洋次監督)も観てきた。それは比較にはならないだろうが日独の作品の違いが実に鮮やかと思えた。とりあえずは知のドイツと人情の日本とでもいっておいてよい。しかし松竹の大先輩である小津安二郎監督の「東京物語」に捧げたオマージュは山田流に翻案されて山田監督の小津監督に対する敬愛の念が深く伝わった。監督生活50年の老境の名匠と今が盛りの監督の作品の比較は一筋縄ではいかないがいずれ試みてみよう。

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2013年2月10日 (日)

17歳のモーツァルト

 日曜日の午前8時5分から始まるNHKラジオの「音楽の泉」でモーツァルトの交響曲25番を久しぶりに耳にし、朝のまどろみの時を過ごした。皆川達夫氏が1950年代のブルーノ・ワルターとウィーン・フィルとの録音で解説している。引っ越しで段ボールの中にあるレコードで聴いた40番と共に収録されていた演奏だろう。アカショウビンは第1楽章のワルターの解釈に同意しない。しかし17歳のモーツァルトの精神の昂ぶりと静謐を、この作品は見事に留めている。「アマデウス」(ミロス・フォアマン監督)の冒頭で使われていた演奏は英国のネヴィル・マリナーの演奏だった。これが好かった。ワルターの解釈のような鋭く17歳の少年の精神の昂ぶりと焦燥を炙り出した演奏とは異なる。

 書で言えばワルターは草書と楷書の対比が鮮やかだ。しかしマリナーの演奏は楷書の、じっくりとした響きになっていた。それが映画の中で実に巧みな効果を齎していて納得したのだ。それは映像に或る落ち着きと安定といった効果を醸しだしていた。久しく作品は見直していないから新たに見直せば別な感慨も出てくるだろう。

 晩年の40番と同じト短調という調性が齎す緊張と焦燥、アンダンテ、メヌエット楽章の崇高さを含んだ典雅の対比は正しく天才の音楽である。指揮者とオーケストラはともかく、17歳の少年の精神が生き生きと作品の中に飛び跳ねているのを聴き取るからだ。

 少年も成熟に至る。40番から41番の最後の交響曲は一人の天才の成熟と到達した境地を音として後世に残した。幾多の人々が作品に接し刺激され反発され啓発される。それはさておく。大袈裟に言えばモーツァルトという天才はヒトという生き物の精神の高みと深遠、深い淵を抉り出し、聞こえる音として留めた稀有の人物であることを実感、痛感する。

 というわけで今朝はモーツァルトの音楽によってまどろみから目覚め、穏やかで典雅、多少の緊張も兆す一日となった幸いを言祝ぐ。

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2013年2月 7日 (木)

四方山話と火事と横転

 一昨日は、仕事つながりの知人と会い一杯飲みながら四方山話。齢70半ばの氏は若い頃に洋画が好きで退職後はあれこれ資料を渉猟。昨年は若い頃から関心を持ち続けた米国の映画俳優の自伝も出版した。最近は我が邦の監督内田吐夢の経歴を調べていると言う。「飢餓海峡」や「宮本武蔵」の話で楽しい時を過ごした。

 昨夜は、これまた仕事つながりの若い友人と一杯飲みあれこれ。実に旺盛な読書家でハイデッガーやヤスパースの話で盛り上がった。本日の仕事もあるので早めに切り上げて帰途に。駅を降りると何やら雲のような煙が不思議な動きをしている。部分的に大気が異常な状態なのかと気にしながら自転車で帰路に。ところが消防車のサイレンの音が次第に多くなる。これは火事だなと野次馬根性が。近くを周回するとビジネスホテルの裏辺りから紅蓮の炎が噴出している。そのうち何台も消防車が駆けつける。

 こちらはホロ酔い気分で、それどころではなく早く床に就き本日の仕事に備えなければと自転車を走らせた。ところが先日の雪で薄く凍った橋の上を走っていると横転。右側に倒れ、したたか右臂と右耳を地面に叩きつけられた。打撲だけかと思ったが帰って鏡を見ると耳は擦れて血が。臂も血溜まりができている。たいした怪我ではないがウィスキーを飲み床に就いた。

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2013年2月 1日 (金)

命日

 先週は日帰り出張のつもりが、長野まで移動し一泊。久しぶりにカラオケで「舟歌」を唄い温泉にも浸かった。以前のような仕事のマンネリに再び戻ることは幸いなのか不幸なのか?しかし、仕事とはいえそうもない労働で糊口を凌ぐよりはマシだと実感する。昨日も神奈川県の藤沢で仕事。遅い新年会で一杯飲み帰宅。床に入って聞いた志ん生の落語を目覚めて聴き直し床を離れた。見残したレンタルDVDを最後まで観た。きょうが返却日なのだ。先日亡くなった大島渚の作品二本と一緒に借りてきた米国製ボクシング映画である。なかなか面白かった。スターローンの『ロッキー』を意識した内容で、あれより洗練した仕上がりで楽しめた。米国の親子関係、兄弟、恋人との確執が物語の展開となる。異国でも家族の確執には共通するものがある。我が身を振り返り実感する。

 朝のテレビでは若い女性ヴァイオリニストのリサイタルを放映している。それを聴きながら、この一週間を振り返る。演奏はクライスラーの「美しきロスマリン」で心和む。このひと時の貴重は此の世に棲む至福の時ともいえる。

 昨日は一昨年、32歳で逝った同僚の女性の命日である。昨年10月に遅い納骨式に出席し、お母様とも久しぶりにお会いした。先日、寒中見舞いのハガキが届いた。クリスチャンである彼女が旧約のダビデの言葉をを引用されている。「あの子を呼びもどせようか。わたしはいずれあの子のところへ行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰ってくることはない」と書かれて、「この言葉が胸にくる日々です」、と記されている。母一人、娘一人の我が子を失った女性の哀しみはいかばかりか。

 此の世に棲む日々は喜怒哀楽である。しかし時に死の淵を覗く思いにも浸る。若いヴァイオリニストの演奏を聴きながら一人娘を失った母親の葉書に返事を書かなければ、と呻吟する。旧約の出典は何か。若い頃に読んだ旧約は文庫の「エゼキエル書」だった。ユングを読んでいて出典にあたったのだった。中野の3畳の下宿で悶々と日々を暮していた頃に何か心の窮屈に活路を開きたかったのだろう。

 そのような愚想を一人娘を失った母親の苦悶に共振させようとするが果たして響きは生じるだろうか。

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