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2013年2月10日 (日)

17歳のモーツァルト

 日曜日の午前8時5分から始まるNHKラジオの「音楽の泉」でモーツァルトの交響曲25番を久しぶりに耳にし、朝のまどろみの時を過ごした。皆川達夫氏が1950年代のブルーノ・ワルターとウィーン・フィルとの録音で解説している。引っ越しで段ボールの中にあるレコードで聴いた40番と共に収録されていた演奏だろう。アカショウビンは第1楽章のワルターの解釈に同意しない。しかし17歳のモーツァルトの精神の昂ぶりと静謐を、この作品は見事に留めている。「アマデウス」(ミロス・フォアマン監督)の冒頭で使われていた演奏は英国のネヴィル・マリナーの演奏だった。これが好かった。ワルターの解釈のような鋭く17歳の少年の精神の昂ぶりと焦燥を炙り出した演奏とは異なる。

 書で言えばワルターは草書と楷書の対比が鮮やかだ。しかしマリナーの演奏は楷書の、じっくりとした響きになっていた。それが映画の中で実に巧みな効果を齎していて納得したのだ。それは映像に或る落ち着きと安定といった効果を醸しだしていた。久しく作品は見直していないから新たに見直せば別な感慨も出てくるだろう。

 晩年の40番と同じト短調という調性が齎す緊張と焦燥、アンダンテ、メヌエット楽章の崇高さを含んだ典雅の対比は正しく天才の音楽である。指揮者とオーケストラはともかく、17歳の少年の精神が生き生きと作品の中に飛び跳ねているのを聴き取るからだ。

 少年も成熟に至る。40番から41番の最後の交響曲は一人の天才の成熟と到達した境地を音として後世に残した。幾多の人々が作品に接し刺激され反発され啓発される。それはさておく。大袈裟に言えばモーツァルトという天才はヒトという生き物の精神の高みと深遠、深い淵を抉り出し、聞こえる音として留めた稀有の人物であることを実感、痛感する。

 というわけで今朝はモーツァルトの音楽によってまどろみから目覚め、穏やかで典雅、多少の緊張も兆す一日となった幸いを言祝ぐ。

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