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2012年12月27日 (木)

音楽とは何か?

 音楽とは何か?という問いは時にアカショウビンの中で忽然と湧き起こる。今朝もテレビでロシアの合唱団の映像と音に眼と耳を凝らすと、その問いが訪れた。それは、訪れた、というようなものであるのが実にいい加減なものである。しかし、それは日常的ではない。時に、それは威嚇のように、また恩寵のように訪れる。それは或る、聖なるもの、あるいは崇高なるものとは何か、という問いにも通底しているかもしれない。合唱団はロシア正教の文化・宗教風土の中で何かを声として発する。それは、言葉或いは語、を介するが、それは手段と解することもできる。手段とは恐らく正確ではない。しかし、人間という生き物は、そのように何かに達するためには言葉や語を介して達しようと足掻く生き物なのではないか。音楽というより声の力といったほうがよいかもしれない。しかし聴覚を介して人の精神を励起するものは下記のような経験も深く耳を傾けなければならない経験だ。或るブログからの無断転載だが引用は自由ということなので、敢えて失礼し掲載させて頂く。

 私は政治犯として13年半獄中にありました。
私が最初に投獄されたとき、私は六ヶ月間狭い独房に放り込まれました。そこでは一冊の本を読むことも許されませんでした。私は飢えて、そして孤独でした。
監獄にいていちばんつらかったことはそこに音楽がないことでした。けれども、やがて私はそこにも音楽があること知りました。夏になって、遠くに雨の気配がした時のことです。最初は埃の匂いがして、それから雨音が聞こえたのです。雨音は聞き耳を立てている私の耳元までしだいに近づいてきました。音はしだいに大きく、大きく、大きくなりました。そして突然雨が降り注ぎ始め、古い獄舎のトタン屋根を荒々しく叩き始めたのです。雨樋を流れ落ちる水音と鉄格子と鉄の扉をきしませる音が響き渡りました。次いで稲妻が空を切り裂き、少し遅れて雷鳴が轟き、この音楽の演奏をさらに劇的なものとしたのです。なんとみごとな音楽だったことでしょう!

 庭にも隅にも割れ目にもさまざまな種類の植物が繁茂していました。高いコンクリート壁の亀裂からさえ生命力あふれる野生の植物が生えてくるのです。植物たちにはその四季があります。春には、植物たちは目覚め、その緑の拳を突き上げます。夏には見事な花を誇らしげに咲かせます。秋には、子細に観察すれば、彼らが収穫に忙しい様子が見て取れるはずです。そして冬になると、その細く乾いた茎は、コンクリート壁のはるか上で、刺し通すような寒風にしっかりと耐えながら、春の到来を待つのです。
冬の監獄は恐ろしい寒さでした。そこにはストーブも、およそ暖房器具に類するものは何一つありませんでした。室温はほぼ外気温と同じでした。ですから、室内の器に水を張っておくと、翌朝にはそれが氷の塊になっているのです。凍えるような夜、私は冷え切って、ひとりぼっちでした。しかし、私の意識は鎮まり、深まり、五感はひりひりするほど鋭敏でした。私の息づかいは沈黙の祈りに似たものとなっていました。寒空に満月が浮かぶと、月光は独房の小さな窓を通して獄舎のうちに溢れかえり、反対側の壁に大海原の青い波を描き出します。私は起き上がり、つま先立ちになって庭の木々を眺めました。月光を浴びた木々は喜びと寒気で震えていました。私もそうでした。「やあ」と私は低い、静かな声で彼らに呼びかけました。「やあ」と彼らははずかしそうに身をよじって返答してくれました。そんなふうにして私たちは長い間、心を慰めるおしゃべりを交わしたのです。

 しかし、何と言うことでしょう!あの静けさは釈放されてから後、日々の生活の営みにまぎれているうちにかき消えてしまったのでした。

 ★結語に私たちは自らの経験に立ち返る。そうなのだ。私たちの経験とは、何か大切で決定的な体験、経験というものを、平凡な日常の中で忘れてしまうのだ。しかし、それを手掛かりに想い出し、再考し、愚考を重ねることはできる。恩寵としての音楽の彼方にあるもの。それは何か。ハイデガーは、それを、存在、と見做しているのだろうか。それは熟考しなければならない問いだ。

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2012年12月26日 (水)

米長邦雄永世棋聖追悼

 ブログの「さわやか日記」は12月3日の書き込みが最後だった。以後は病状が悪化したものと思われる。将棋ファンとして突然の死に驚いた。ブログをたまに見ながら前立腺ガンは快癒したものと思っていたからだ。昨日購入した「週刊将棋」に掲載されている写真は頬が削げて病状の苛酷を示していた。しかし少年や少女のような、と形容してもよい瞳の輝きと美しさは稀代の将棋指し、勝負師としての米長邦雄という人の姿を捉えていると思った。同時代を生きて、その将棋や言動に関心を掻き立てられた縁を振り返り心から哀悼したい。

 艶福はマスコミの格好の餌食だろう。夕刊紙でもその一端を読んだ。或る女優との経緯も知る人ぞ知るであろう。その言動は茶目ナガとからかわれもした。奥様やご家族にとっては修羅の如きものだったろうが、アカショウビンからすれば愛すべき嫉妬も含んだものとして読み楽しんだ。

 ブログには死を覚悟した、マスコミでは〝遺書〟と報じられた文章の一つも書かれていて読んだ。しかしそれは何年か先のものと思った。ところが病状は相当に悪化していたようだ。新聞で読んだ、病床に兄たちを呼び寄せ話した様子は死を覚悟してのものと思われる。将棋指しらしく、死ぬ時を「投了」の時と譬えていたのが米長(敬称は略させて頂く)らしかった。

 将棋好きの友人に電話したら、しかし世間では米長なんて知らない人が殆どだからな、と語った。それはそうかも知れない。しかし将棋界の顔としてマスコミには相当に露出してきた人物だ。新聞での扱いもそれなりのものとして読んだ。政治的発言には強い違和感をもった。艶福の漏れ聞くところからすると女性からは好悪が分かれるところだろう。しかし一人の将棋指しとして、勝負師として愛すべき人物だった。将棋ファンとしては著作や棋譜で生き様と仕事の内容を辿ることができる。突然の訃報を心から悼む。

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2012年12月23日 (日)

存在へと身を開き‐そこへと出で立つ

 日々の仕事の遣り取りで怒り呆れ倦み疲れた精神を励起させるには次のような思索と文章に没頭することである。

 世界内存在とは、人間を天上的でない世俗的なものとして捉えることではなく、「存在へと身を開き‐そこへと出で立つありかた」において捉えることである。「『ヒューマニズム』について」(ハイデガー著 ちくま学芸文庫 p105 1997年 渡邊二郎訳)

 戦後のハイデガーの思索の根幹がフランス人、ジャン・ボーフレ氏との往復書簡の中で言葉を尽くして展開されている。1947年の出版に至る経緯は紆余曲折があったものと推察される。戦後に広く流通し現在もその頃と殆ど変わらないだろう「ヒューマニズム」という術語にハイデガーは反発し語の本来の意味するところを説く。そこで費やされる言葉の奥にハイデガーが見据えている存在という語の奥行きが直感される。それは未だに継続されなければならない思考と思索だ。敗戦国のドイツ人が戦勝国のフランス人の質疑に実直に応答している。主著「存在と時間」以後も継続されているハイデガーの思索が実に興味深いではないか。このような思索を読み直し日常の通俗から脱却し生きる力を湧き起こすのだ。

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2012年12月15日 (土)

歌手烈伝

 先日、東京・ブルーノートで、八代亜紀のライブがあったことをネットや新聞記事で知った。「舟歌」は、かつてアカショウビンのカラオケの定番だった。学生の頃に中野の三畳の下宿で聴き、心に沁みた。後に「駅STATION」(1981年 降旗康男監督)で高倉健と倍賞智恵子が飲み屋で唄うシーンに使われているのが好かった。八代のジャズを聴き逃したのは痛恨の極み。CDでなく、もう一度どこかのクラブでライブが聴きたいものだ。

 優れた女優が多くのファンによって醸成されるように、歌手もまた多くのファンによって生み出される。美空ひばり、然り。かつてアカショウビンは女優烈伝、歌手烈伝を思い立ったことがあった。「キス・ミー・ケイト」のアン・ミラーや、フレッド・アステア、ジーン・ケリーのミュージカル・スターの歌や踊りに圧倒されたことによる。その歌や踊りは何とも見事で楽しい映像と声だった。

 女優はさておき、同時代を生きている歌手で思い立つのは中島みゆき、井上陽水、八代亜紀、ちあきなおみ、だ。本日のテレビで八代亜紀を特集しているのをたまたま見た。クラブ、キャバレー歌手として全国をトランク一つで歌い継いだ逸話や映画に出演して多くの人々の支持を得た、という逸話は美談とも神話の如きものだ。しかし、その声から滲み出て発散する何物かは或る普遍的とも邪推される存在の声と言ってもよい。そのような高みと境地に達した人が存在する。それは越境といってよい人と姿と声である。アカショウビンが幾人かの人々に看取する、その何物かは思索者が説く「存在」が伝える何物かである。

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2012年12月14日 (金)

俗物と野蛮と思索

 以下はかつてミクシイに書き込んだもの。ネットで発見し、数学者、岡 潔の新たに知った事実が記されていたので失礼して転載させて頂く。筆者の文体を損なわない程度で段落と句読点を変えたことをお断りする。
 
 岡は三高、京大の学生時代に〝王将″で知られる坂田三吉と親しく、時には将棋を指しながら、イロイロ教わった。岡の叔父が大阪で眼科医をしており、大変な将棋ファンで、坂聖二吉と親交を重ねており、医院にも三吉一門はよく訪れた。岡も同席し、観戦したり、指したりしたが、学問のない三吉は岡を尊敬し、一目おいていた。
 三吉は「起きている間だけ考えていてはダメ。寝ても覚めても考える。すると、よい知恵がバッと出る」「思案はタケノコみたいなもので、大部分は土の中に埋もれている」と哲学的な話をし、岡もすっかり共鳴していた。岡の数学へ徹底して打ち込む姿勢の中には三吉の教えが生きていた。

 岡の家には電話がなかった。「電話がないと不便だ!」と奥さんが何度も岡に電話局に申し込むようにいうと、きまって、「俗物!」と大きなカミナリが落ちた。電話など俗物の使う代物というわけ。岡は文明の利器とは一切縁のない男で、電話もかけられない。電気がヒューズがとんで消えても、自分で直せなくて電気屋を呼ぶ。ライターも石か油がなくなるとほうり出してしまって「やっぱりマッチの方がええ」と。

 本を読むのをやめなさい

 岡が一九三二(昭和七)年にフランス留学から帰り、郷里の紀見峠(和歌山県橋本市)の自宅で休養していた頃、岡は昼間でも雨戸を閉め切った真っ暗な部屋で、机の前だけ10センチほど開け、一日中考えにふけっていた。当時、頭の中で考えることを〝実験の場″と称しており、熱心に本を読んでいる友人には「本を読むのをやめなさい。あなたには実験の場が与えられている」と忠告した。タバコとコーヒーが大好きで、飯も食べずに思索にふけっていた。岡は日常生活には全くの無頓着で、ヨレヨレの背広にノーネクタイ。晴雨にかかわらず一年中雨グッをはいて大学に通っていた。「雨グッは底がゴムだから、頭にひびかないから思考の妨げにならない。皮靴はフランスの木靴のようで、中から折れず、歩くと頭にひびく。ところが、雨グッ軽くて、足が自由になって、ヒモをしめる面倒がなく、安くて、こんな便利なものはない」というのがその理由。

 背広でネクタイは「こんな野蛮なことはせん」としめない。着物を着ても、帯をしめない、「交感神経をしめつけるから」というわけ、ヨレヨレの背広で家に帰って風呂に入るまでは、着替えもしない。夜は着たまま寝床に入ってしまう。全くの無精そのものであった。一年中等通して、雨グッにコウモリガサ、よれよれの背広にノーネクタイが岡のトレードマークであった。こうした貧乏生活をしながら、本を書くようなお金になる仕事をもちこまれても岡はいつもあっさりと断った。「時間がもったいない」というのが理由。このため日本語の著書が文化勲章で一躍有名になるまでは一冊もなかった。数学には頭の中の思考を検証する鉛筆と紙、そして本が少しばかりあれば出来る。それ以外の器具はいらない。
 
 絶えず数学のことを考えており、熱中していい考えが浮かぶと、散歩中だろうが、いきなり道端にしゃがみ込んで石や木を拾い、むつかしい数式を書き込んでは計算を始める。解けるまで、時間でも二時間でもしやがみ込んで計算しており、道行く人は何事かと驚いた。
  路上に字を書くならまだしも、だれもいない道で突然、大演説を始めたり、小1時間も電柱に小石をぶつけたりしていた。(以上引用終わり)

 ★このような人の人となりを小生はかつて高校生のころ「好人好日」(1961年 渋谷実)という映画で見て面白かった。岡潔を笠 智衆が演じて娘を岩下志麻が演じていた。そこで「春宵十話」、小林秀雄との共著「対話 人間の建設」を読んだのだった。その後、この十数年、読み続けてきた保田與重郎の『現代畸人傳』(保田與重郎文庫16)で保田が描く岡潔を興味深く読んだ(「九 われらが愛國運動」)。
 保田の近代否定の思想の詳細が此の論考の中にも一人の数学者を通して詳細に述べられている。「岡先生の思想は、無限と永遠を根抵としている。日本が近代世界の仲間入りをしてこの方、誰一人もあからさまに云はなかつた眞理世界を、岡先生は、俗談平語のやうに語つてをられるのである」(同書p259)
 文芸誌で同書が連載されたのは昭和38年2月で、翌年10月一本として上梓された。文庫本の裏表紙に写されている初版本の文字は、かつて京都の河井寛次郎記念館で見た毛筆日記の書体も思い出された。
 映画は再見していない。昨年か一昨年、池袋の新文芸座でかかっていたが残念ながら見逃してしまった。

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