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2012年11月12日 (月)

三島由紀夫論を面白く読む

 先日、出張で長野市を訪れた。仕事の最中に、たまたま県庁へ行く用事があった。用事は10階だったが1階で図書館の用済みになった本を無料で処分している。ざっと見ると興味深い2冊を頂いた。「三島由紀夫の日蝕」(石原慎太郎著 1991年3月15日 新潮社)と「崩れ」(幸田 文著 1991年10月21日 講談社)。二つとも特に手垢で汚れているのでもない。これは出張の役得と、先ず前者から読み出したら実に面白い。アカショウビンは政治家と小説家としての石原氏に何の興味もないが、1990年に月刊誌に掲載された表題の三島論は実に興味深い。若き頃に小説家としてデビューし、私生活でも気軽に付き合い文芸誌で対談などもした人の三島論として面白い。

 表題の論考の他に、昭和31年・昭和39年・昭和44年の対談が収められている。〝憂国忌〟も近い。読み終えたら、感想も記したい。途中まで読んだところでの感想は、石原という、かつてあった文壇という〝部落〟に〝異邦人〟として舞い込んだ人の当惑と好奇心の言説が、回想と20年という時間を経た〝思想〟として表明されているのが面白い。それは好き先輩であり友人でもあり、その後の異なる生き方を余儀なくされた人への敬愛と立脚点の違いを、より鮮明に自覚する論考である。今から22年前、三島の死から20年も経って証文の出し遅れのような三島論をなぜ書いたのか。そこには三島という天才で畸人と言ってもよい同業者への敬愛と不可解が〝異邦人〟らしく表出されているところが興味深い。

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