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2012年10月 5日 (金)

キクの現在

 キクとは「キクとイサム」(1959年 今井 正監督)の、キク役で出演した高橋恵美子さん。夜中というより明け方のラジオのインタビューで現在の声を聴いた。記憶の彼方の映像と、この作品を観た池袋の文芸座地下の光景が脳の奥で明滅する。今井作品として特に優れた作品とも思えなかった。しかし戦後の風景を切り取った或るメッセージが含まれているのは否めない。それは多くの観客が承知していただろう。左翼監督として今井を或るバイアス、フィルターで見る人たちが現在もいるかもしれない。しかしアカショウビンが感銘した今井作品や日本映画の名作は、そのようなバイアスやフィルターとは一線を画している。それは、とかく反戦映画として評される「二十四の瞳」(1954年 木下恵介監督)にしても同じである。反戦映画というジャンルなど必要ない。優れた作品か愚作か駄作、凡作という区別で十分だ。その区分けでいけば「キクとイサム」は、観直す機会があれば異なる感想を持つだろうが、当時の印象を振り返れば今井作品の他の秀作、傑作からすれば凡作だった。しかし、そこに含まれるメッセージは観客も監督と出演者たちにも濃淡はあれど共有されているだろう。

 高橋さんが歌手デビューしていて29歳の時にLPを出していたとは初めて知った。その後、ジャズやシャンソンにも挑戦していることも。番組の最後は高橋さんの祖母に捧げる、ハモンドオルガンが軽快なリズムを刻むジャズ調の曲だった。「ろくでなし」やシャンソンが聴いてみたいものだが、それもデビュー以来続けているというライブで。恐らく高橋さんの過去と現在が強烈に反照している声として響くと思われる。

 「キクとイサム」の出演陣が或る感慨を呼び起こす。北林谷栄、宮口精二、荒木道子、多々良 純、三國連太郎、殿山泰司、三島雅夫、東野英治郎、賀原夏子、滝沢 修、長岡輝子、田中邦衛(ノンクレジット)。日本映画の錚々たる俳優が参加している。今井作品でアカショウビンが感銘を受けた作品は「真昼の暗黒」(1956年)、「夜の鼓」(1958年)、「越後つついし親不知」(1964年)。「米」(1957年)。他にも秀作、傑作はひしめいている。聞けば今年は監督没後100年の年という。そういえば春頃に、どこかの映画館で今井正特集をやっていた筈だったが見逃した。高橋さんも今井監督も同作品をちゃんと観直したのはずいぶん後のことと話しておられた。自作を殆ど観直さないという監督が、その時に高橋さんに「恵美ちゃん、いい作品だねぇ」と他人事のように語っていたという挿話が面白い。秀作や傑作と祀り上げられた作品も監督にとっては、そんなものかもしれないと思うからだ。今井 正は後世の映画好きからすれば巨匠だろうが、他の巨匠達にも共通するものがあるとすれば優れた映画職人ということだ。小津安二郎も黒澤 明、新藤兼人もそうだ。そこで異なるのは個性と資質の違いのみだろう。職人は、どんな人でもやはり人様に恥じない良い仕事がしたいのだ。

 日本人の母と黒人米兵の混血児として生まれた高橋さんは、長じて殆ど差別されるこはなかったと述懐されていたが、そのようなことがあるわけがないと思われる。高橋さんの心配りであろう。とはいえ、映画出演で多くのファンを得て、歌手としても多くのファンに支えられたことも事実と思われる。「私たちが死に絶えなければ昭和は終わらないと思います」(趣意)という話は高橋さんにしか言えない重みを有すると思われた。そうなのだ、敗戦で天皇が人間宣言をし、御世が平成と変わっても、或る苛酷な出自と時代を生きた人々の係累は、その人々の姿と声、言葉の断片を介して、或る時代の切実な何事かをまさぐりたい、という好奇心と衝動を感じる筈だ。それは先の大戦後を生きる我々にとって背負わなければならない貴重な遺産である。良い意味でも悪い意味でも。それは昨今の政治的茶番を超えて我々に課された恐らく想像を超えた責任であることはいくら強調しても足りないと思われる。それは争いの絶えない現在の国民国家を超えて、此の惑星に棲むヒトという生き物の将来に関わる事である。その視角を持たない論議はすべてナンセンスといってよい。

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