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2012年8月19日 (日)

ホロコースト・ショアー

 新藤兼人監督の「さくら隊散る」が公開されたのは1988年。それを初めて観たのは数年前にレンタルDVDだった。フィルムセンターの特集で「裸の島」を観て以来、新藤作品は黒沢や小津のような巨匠たちとは異なる興趣を掻き立てられる作品だった。それは監督が広島の出身で、原爆で姉を亡くした経験を持つことも要因の一つだ。それは映画監督として生涯を通じて間歇的に作品化されている。「さくら~」もそのひとつである。しかしそれは物語ではなく広島で被災し全滅した移動演劇集団である桜隊の役者達を知る役者たちへのインタビューと当時の現状を想像し映像化するという構成になっている。亡くなった役者たちと親交のあった役者たちが死者たちの人となりを語る。そこで或る記憶と歴史的現実が浮き彫りにされる。それは哀悼であり悲哀であり告発である。哀悼と悲哀はヒトという生き物に共通する感情だ。しかし告発は監督だけでなく国民として現在に生き残る者たちの憤怒であり責務である。

 2発の原爆はホロコーストでありショアーである。それはナチ政権下のドイツがユダヤ人を冷徹に殺戮した行為と共通する。その残忍さは戦争という政治交渉の結果である。しかし、そこには人間の<悪>が不気味な姿として現象している。ところが、それは人間達の意図した結果であるにも関わらず隠蔽される。その愚劣とキリスト教徒たちが「罪」と呼ぶ概念は彼らが負わなければならない。しかし果たしてどれほどの米国人がそれを自覚しているのか?多くの米国人たちが政治的言説で処理している。そこで新藤兼人の作品は、どれほど彼らの感情に届いているだろうか?多くは戦争の大義の偽名のもとに黙殺され隠蔽されているだろう。しかし時に深い共感が伝わることがある。原爆投下の2年後に生まれた女性が被爆した人々の衣服を写真で取った「作品」が彼の地の人々やスペイン、韓国人たちにも強い印象を与えていることをテレビ番組で知った。それは少数の人々であるだろう。しかし悲惨は衣服を介して間接的に想像的に伝わる。番組は、その事実を伝えていた。米国人たちは彼らが信奉するキリスト教徒たちが法を盾に残虐な行為を容認する。その法の根拠の真偽を問うことは恐らくない。それは真実を見ようとしない破廉恥である。

 かつて或る仏教教団のトップが原爆を落とした責任者は死刑にせよ、と喝破した。それは不殺生である筈の仏教徒としてあるまじき発言である。しかし、ヒロシマ、ナガサキの事実を知れば、それは当然の発言である。惨状はそれを伝えて余りある。余りとは何か?ヒトという生き物の不気味さである。仏教では<業>と称す。

 それは「時代の悪臭」と形容することもできよう。中東やシリアの現状は正にそれである。我が国では幕末から維新の時代に既に経験している。人間という生き物は崇高と裏腹にそういう存在である。「さくら隊散る」を再見して倦み疲れる日常に喝を入れられた。更に愚考を継続しなければならない。

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