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2012年8月12日 (日)

若松作品再考

 「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」は駄作というより愚作としてがっかりした。しかし「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(2008年)と「キャタピラー」(2010年)を観て若松孝二の名が久しぶりに鮮烈に甦り、老境に入った映像作家の執念の如き作品を喜んだ。

 高校生の頃に起きた「三島事件」は未だにアカショウビンの生に痛烈で不可思議な問いを投げかけていることは、このブログでも何度か書いてきた。批評家の江藤淳が小林秀雄との対談で「あれは三島さんの病気でしょう」と問いかけた江藤の感想を小林は激しく否定した。高校生のアカショウビンにも苛烈で驚愕する事件が「病気」などとは思えなかった。それが未だに文学と思想、政治、哲学を断続的に思索、思考する契機となっている。

 恐らく若松(以下、敬称は略させて頂く)にも、同じような気持が残っているのだろう。しかし期待して見た作品には失望するしかなかった。往々にして期待は裏切られる。先日観たフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」でもそれに近い感想を直感した。しかし、その内容は未だ愚想を巡らす余地を残している。

 友人のN君から6月22日の東京新聞に掲載された若松のインタビュー記事が送られてきた。改めて若松作品を想い起こし酷評の理由を再考する契機を得たことを感謝する。

 若松は「新左翼の若者たちをテーマにした『連赤』を撮影していて右翼の若者たちも取り上げないとおかしいと感じた」と語っている。その「おかしさ」が若松の良くも悪くもバランス感覚という陥穽なのではないか?映像作家として、或いは若き頃に遭遇した「事件」に対する思索の結果は先の2作で共感した。それは同時代の空気感としてアカショウビンの意識や精神が共振したからだ。しかし出来上がった作品に血が通っているとは思えなかった。それは若松が映像と言葉で迫ろうとすればするほど虚しくなるような映像としてアカショウビンには思われた。

  インタビューの見出しは、「怒りを持って これからも撮る」である。その意気や好し。しかし映像表現とは難しいものだ。意識が高まれば高まるほど過程は試行錯誤しながら結果は空回りする。

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