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2012年8月28日 (火)

昨今の日中・日韓摩擦

 昨今の竹島、尖閣諸島の騒ぎはナショナリズムの高揚はともかく品位ある応対が肝要だ。先のロンドン五輪の時はアカショウビンも会期中の期間限定で激烈なナショナリストだったが(笑)、外交、政治の応対は慎みと国家の品格が問われる。都知事の暴言は論外。左右両翼の論客たちには、無断転載で恐縮だが、下記の沖縄から発信されたメッセージを熟読玩味して頂きたい。

>太平洋戦争末期の1944年7月、日本軍は台湾航路の制海空権が米英軍に掌握されていたにもかかわらず、石垣町民に台湾疎開を命じた。1945年6月30日、最後の疎開船、第一千早丸と第五千早丸は老人・婦女子180名余を乗せて午後9時過ぎ石垣港を出港し、西表船浮港を経由して台湾へ向けた。7月3日午後2時頃、尖閣列島近海を航行中に米軍機に発見されて機銃掃射を浴びた。船上は阿鼻叫喚のるつぼと化し、銃撃死、溺死と多数の死者が出た。第五千早丸は炎上沈没、第一千早丸は機関故障で航行不能となったが乗組員の必死の修理で魚釣島に漂着することができ、九死に一生を得た。
 約1カ月近くの集団生活で食料も底をつき、餓死者も出るなど極限状態となった。頼みの千早丸も流出して連絡手段を失った人々は小舟をつくり、決死隊を編成し8月12日午後5時過ぎ石垣島へ向けて出発し、同14日午後7時頃、川平の底地湾に到着した。この救助要請によって生存者が救助され、同19日石垣港へ到着した。
 魚釣島は無人島で遠隔地であることから、現地での慰霊を行うのは困難な為、この地に慰霊碑を建立し、御霊を慰め、併せてこの悲惨な戦時遭難事件を後世へ伝え、人類の恒久平和を祈念する。
        2002年7月3日
       尖閣列島戦時遭難死没者
       慰霊之碑建立期成会

 生存者の証言は、石垣市史編集室『市民の戦時戦争体験』と沖縄県教育委員会『沖縄県史 第10巻』から再録されたものだが、米軍機の攻撃を受けて乗船者が死傷した様子や、尖閣諸島の魚釣島での飢餓に苦しんだ生活が生々しく語られている。
 また、同書には1994年8月16日に開かれた「台湾疎開者生還者の集い」の記録も収録されている。そこには49年の時を経ても自らの体験を語り得ない生存者の苦しみがにじみ出ている。書名の『沈黙の叫び』は、生存者の沈黙の底にある心の叫びに耳を傾けようという意思を示すものだ。

 生存者の証言を読み、その「沈黙の叫び」に耳を傾けようとする時、同事件の慰霊祭を口実に尖閣諸島にくり出し、魚釣島に上陸した地方議会議員やチャンネル桜スタッフらの愚劣さが、あらためて目につく。香港の右翼ナショナリストに対抗してなされた彼らの行為は、戦時遭難死した人々の霊を慰めるどころか、逆に踏みにじるものだ。遺族の心情を思いやる気配りや、犠牲者を悼む気持ちが本当にあったなら、わざわざ事を荒立てる行為をできるはずがない。
 憂国の志士を気取ったヤマトゥの議員・ネット右翼らの行為は、沖縄戦の犠牲者を政治的に利用してナショナリズムを煽り、尖閣諸島をめぐる日中の対立を意図的に拡大する、悪しき売名行為でしかない。自分たちはヤマトゥに帰れば何の被害も受けずに暮らせるだろうが、沖縄では観光や経済、各種交流事業などに実害が出るのだ。
 尖閣列島戦時遭難者遺族会会長へのインタビュー記事を読むと、彼らの行為がいかに独善的なもので、遺族会の意向に反していたかが分かる。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-195921-storytopic-1.html

 領土議連らの行為にほくそ笑んでいるのは、東アジアで軍事的緊張が高まることで利益を得る日米の軍産複合体であり、それに対抗して強化を進める中国の軍部・軍事産業だろう。日米両政府からすれば、MV22オスプレイの配備や先島への自衛隊配備だけでなく、集団的自衛権、ガイドライン(防衛協力のための指針)、武器輸出三原則などの見直しを次々と進めていく口実ともなる。
 67年前、日本「本土」防衛のために沖縄人の命と生活は軽々しく扱われ、犠牲にされていった。その構造はいまも変わっていない。尖閣諸島における戦争の歴史を忘れず、領土をめぐる対立を悪化させて先島への自衛隊配備を進めようという動きに抗するためにも、『沈黙の叫び』を多くの人に読んでほしい。

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2012年8月19日 (日)

ホロコースト・ショアー

 新藤兼人監督の「さくら隊散る」が公開されたのは1988年。それを初めて観たのは数年前にレンタルDVDだった。フィルムセンターの特集で「裸の島」を観て以来、新藤作品は黒沢や小津のような巨匠たちとは異なる興趣を掻き立てられる作品だった。それは監督が広島の出身で、原爆で姉を亡くした経験を持つことも要因の一つだ。それは映画監督として生涯を通じて間歇的に作品化されている。「さくら~」もそのひとつである。しかしそれは物語ではなく広島で被災し全滅した移動演劇集団である桜隊の役者達を知る役者たちへのインタビューと当時の現状を想像し映像化するという構成になっている。亡くなった役者たちと親交のあった役者たちが死者たちの人となりを語る。そこで或る記憶と歴史的現実が浮き彫りにされる。それは哀悼であり悲哀であり告発である。哀悼と悲哀はヒトという生き物に共通する感情だ。しかし告発は監督だけでなく国民として現在に生き残る者たちの憤怒であり責務である。

 2発の原爆はホロコーストでありショアーである。それはナチ政権下のドイツがユダヤ人を冷徹に殺戮した行為と共通する。その残忍さは戦争という政治交渉の結果である。しかし、そこには人間の<悪>が不気味な姿として現象している。ところが、それは人間達の意図した結果であるにも関わらず隠蔽される。その愚劣とキリスト教徒たちが「罪」と呼ぶ概念は彼らが負わなければならない。しかし果たしてどれほどの米国人がそれを自覚しているのか?多くの米国人たちが政治的言説で処理している。そこで新藤兼人の作品は、どれほど彼らの感情に届いているだろうか?多くは戦争の大義の偽名のもとに黙殺され隠蔽されているだろう。しかし時に深い共感が伝わることがある。原爆投下の2年後に生まれた女性が被爆した人々の衣服を写真で取った「作品」が彼の地の人々やスペイン、韓国人たちにも強い印象を与えていることをテレビ番組で知った。それは少数の人々であるだろう。しかし悲惨は衣服を介して間接的に想像的に伝わる。番組は、その事実を伝えていた。米国人たちは彼らが信奉するキリスト教徒たちが法を盾に残虐な行為を容認する。その法の根拠の真偽を問うことは恐らくない。それは真実を見ようとしない破廉恥である。

 かつて或る仏教教団のトップが原爆を落とした責任者は死刑にせよ、と喝破した。それは不殺生である筈の仏教徒としてあるまじき発言である。しかし、ヒロシマ、ナガサキの事実を知れば、それは当然の発言である。惨状はそれを伝えて余りある。余りとは何か?ヒトという生き物の不気味さである。仏教では<業>と称す。

 それは「時代の悪臭」と形容することもできよう。中東やシリアの現状は正にそれである。我が国では幕末から維新の時代に既に経験している。人間という生き物は崇高と裏腹にそういう存在である。「さくら隊散る」を再見して倦み疲れる日常に喝を入れられた。更に愚考を継続しなければならない。

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2012年8月12日 (日)

若松作品再考

 「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」は駄作というより愚作としてがっかりした。しかし「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(2008年)と「キャタピラー」(2010年)を観て若松孝二の名が久しぶりに鮮烈に甦り、老境に入った映像作家の執念の如き作品を喜んだ。

 高校生の頃に起きた「三島事件」は未だにアカショウビンの生に痛烈で不可思議な問いを投げかけていることは、このブログでも何度か書いてきた。批評家の江藤淳が小林秀雄との対談で「あれは三島さんの病気でしょう」と問いかけた江藤の感想を小林は激しく否定した。高校生のアカショウビンにも苛烈で驚愕する事件が「病気」などとは思えなかった。それが未だに文学と思想、政治、哲学を断続的に思索、思考する契機となっている。

 恐らく若松(以下、敬称は略させて頂く)にも、同じような気持が残っているのだろう。しかし期待して見た作品には失望するしかなかった。往々にして期待は裏切られる。先日観たフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」でもそれに近い感想を直感した。しかし、その内容は未だ愚想を巡らす余地を残している。

 友人のN君から6月22日の東京新聞に掲載された若松のインタビュー記事が送られてきた。改めて若松作品を想い起こし酷評の理由を再考する契機を得たことを感謝する。

 若松は「新左翼の若者たちをテーマにした『連赤』を撮影していて右翼の若者たちも取り上げないとおかしいと感じた」と語っている。その「おかしさ」が若松の良くも悪くもバランス感覚という陥穽なのではないか?映像作家として、或いは若き頃に遭遇した「事件」に対する思索の結果は先の2作で共感した。それは同時代の空気感としてアカショウビンの意識や精神が共振したからだ。しかし出来上がった作品に血が通っているとは思えなかった。それは若松が映像と言葉で迫ろうとすればするほど虚しくなるような映像としてアカショウビンには思われた。

  インタビューの見出しは、「怒りを持って これからも撮る」である。その意気や好し。しかし映像表現とは難しいものだ。意識が高まれば高まるほど過程は試行錯誤しながら結果は空回りする。

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2012年8月 7日 (火)

労働とは何か

 出張で先々月から先月は長野県を、昨日から一泊で新潟県内をレンタカーで駆け回り、殊勝にも仕事や労働について少し考えた。読みさしの本のせいもある。

リセ(中学校)の哲学教師だったシモーヌ・ヴェーユが工場に入り一人の女工として働き、その現状を伝えたのは1930年代で、それが広く知られたのは戦後になってからである。彼女は任地の労働組合と接触しながら、そこを通じて工場に入った。その後、スペイン市民兵となり、戦時中カサブランカからニュー・ヨークへ渡り、最後にロンドンへ赴き、その間に哲学的文章を書き、1943年8月24日、英国はケントのアシュフォード療養所で、死んだ。工場日記や書簡を出版社が『労働の条件』というタイトルで発刊しフランスで話題になり広く読まれるようになったのは戦後大分経ってからである、と加藤周一が「新しい人間という問題」(『現代ヨーロッパの精神』2010916日 岩波書店 岩波現代文庫)という論考で紹介したのは1956年である。

加藤周一は「シモーヌ・ヴェーユは、なぜ工場へ入ったか。」と問いかけ(同書p93)、「その答えは、1934年、工場で仕事をはじめてから、『ある女生徒への手紙』のなかに、すでに与えられているように思われる」と書いている。

加藤は次のように続ける。

必ずしも彼女が、そこで自分自身の仕事の意味を説明しているからばかりでなく、女生徒がそこで身上相談をしかけ、「感覚」の問題に触れ、「愛」の問題を提出して、彼女がそれに答えているからである。論理的な順序からいえば、「感覚」の問題が第一、その次が「愛」の問題、最後に「労働」の問題が来るといえるだろう。

そのようなことで何もシモーヌ・ヴェーユや加藤の論考の感想を書きたいわけではない。アカショウビンも短い間だったが長年務めた会社を辞めしばらく大阪でアルバイトをしながら食いつないでいたから「労働」について少しは考えたからだ。工場の単純作業は学生時代に少し経験した。しかし中高年になり時給で働く仕事は楽ではない。現在の仕事も戦後には〝下層セールスマン〟と蔑まれた仕事であるが、工場労働や葬儀会館の夜間勤務、路上警備などよりはマシだ。工場労働はともかく、夜間警備や路上警備の仕事は創造的で生産的な仕事ではない。工場の単純作業も心身を消耗する時間の切り売り労働であろう。

加藤はシモーヌ・ヴェーユの書いたものを読み、「大学では、ものを考えるか、少なくとも考えているように見せることによって収入が多くなるのだが、工場では逆にものを考えないことによって収入が多くなる」と書いている。

さらに次のように書く。

結論から先に言えば、「とにかく生きてゆけるかぎり、生活の物質条件だけが、不幸の原因ではない」という短い一言に、彼女の体験と観察の全体は要約されるだろうと思われる。人を幸福にするのも、不幸にするのも、「生活の条件に結びついた感情だ」と彼女はいう。ただしその感情は、気のもち様でどうにでもなるようなものではなく、生活の条件が変わらぬかぎり変り様のないものである。(同書p98

1930年代のフランスと現在は異なる。しかし日本でも他の国でも労働の現場というのはシモーヌ・ヴェーユが伝えた労働現場と本質的なところでは近似しているのではないか?「女工哀史」はそれを伝えているし、戦後日本の労働現場のレポートも数多くあるはずだ。ある種の仕事に見られる〝労働の悲しさ〟ということについて少し考えてみたいとおもう。

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