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2012年7月27日 (金)

ドルチェ ― 優しく

 先日、ネットを遊弋していて衝動的にロシアのアンドレイ・ソクーロフ監督の「ドルチェ‐優しく」(2000年)を見たくなり監督と出演者の島尾ミホさん、詩人の吉増剛造氏との鼎談や、撮影日記、ミホさんの作品も収められている書籍(2001年 岩波書店)と共に注文し購入した。それは、監督の最新作「ファウスト」が上映されている情報を知り、この監督の未見の旧作を見なければならない、という衝動に駆られたからである。なぜなら、この監督が何ゆえアカショウビンの故郷の高名な小説家夫人の映像を撮る理由が知りたかったのだ。

 監督は島尾ミホさんの語りに耳傾け、キャメラを回す。島尾敏雄が亡くなり、ミホさんは喪服を着続けているという報道はマスコミに書かれた文章で管見していた。「島ノ唄」(伊藤憲監督)で初めてミホさんの姿を拝見した。それで初めて奄美では蝶のことをハベラ、アヤハベラと呼ぶことを知ったのである。小学5年の頃にアカショウビンは憑かれたように蝶採集に全身全霊を集中した。その頃が人生の頂点だと言ってもよいことは何度か書いた。

 かつて信長は人生50年、と戦の前に覚悟し舞った。戦へ臨む感慨とアカショウビンの昨今の日常のマンネリは対照的だ。しかし、そこには人間という生き物の不可思議が明滅している。人間半世紀も生きれば何事かを了知する。それは自らの死を覚悟しなければならないというものであろう。島尾家の愛憎はそれを伝えて余りある。

 鷗外の「妄想」という短編には50歳を過ぎて人生の晩年を意識して過去とやがて来る死を覚悟する男の感慨が吐露されている。それから数年後に「なかじきり」を書いて鷗外は人生の起承転結を簡潔にまとめた。そこに明治人の気骨というものを看取する。

 フェリーニの「甘い生活」の原題はドルチェ・ヴィータである。イタリア語のドルチェを、甘い、と訳すのはドルチェといいうイタリア語に込められた全容を網羅している筈もない。しかし「ドルチェ~」には、その何かという本質の幻と真理らしきものが陽炎のように揺らめいている。「死の棘」の作者が経験し文章に綴った日常の棘を監督は執拗に探求したのであろう。しかし、そこでもまた真実と真理は夢幻の如く明滅しているだけではないのか?

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2012年7月24日 (火)

出張日記

 昨日から山梨県の甲府市へ一泊出張。ホテルでサービスの夕刊を読むとベタ記事に「タイ、九州に義援金」の見出し。先の〝九州北部豪雨災害〟にタイ政府が500万バーツ(約1200万円)の義援金を23日午前、外務省で外相が贈呈したそうである。在タイ日本大使館は、同災害で外国政府から義援金が寄せられたのは初めてとコメントしているとも。ありがたいことである。もちろん、その背景には在日(北九州)タイ人らへの配慮があるだろう。しかし、異国の一地域の災害へのこの配慮には頭が下がる。かつて何度か訪れた国の景色と人々の姿が目に浮かぶ。それに独特のタイ料理。これだけはなかなか馴染むことができなかったが。それも単なる旅行者の感想で棲んでみればまた違うだろう。

 その同じページには、「森元首相、引退の意向 『若い人に道を譲る』」。森喜朗氏、75歳。昨年7月には長男を亡くされている。心に期するところがあったのだろう。この元首相に特に思い入れがあるわけではない。マスコミからノミの頭脳とクジラの胃袋と揶揄されたことが記憶に残っているくらいだ。しかし弁舌は滑らかだった。決してノミの頭脳というわけでもあるまい。その引き際は老残を晒す都知事などとは対照的な潔いものと映る。

 数年前に甲府で泊ったホテルは飼っている鈴虫の声が物凄かった。昨夜泊ったホテルはそういう粋な計らいはない。無味乾燥だが必要最小限な設備にプラスαを備えている。それは清潔さと朝夕刊のサービスとか朝食のサービスなど旅行者への細部にわたる配慮といったものだ。そういえば朝刊のコラムでは我が首相への揶揄も読んだ。

 10年前の今日、国連で拷問禁止条約議定書案なるものの採決があり、日本は米国に同調し採択の阻止側に与した。米国を支持したのは、中国、リビア、イラン、スーダン、ウガンダ、パキスタン。オスプレイ配備については首相の「米政府の方針であり、(日本から)どうしろこうしろと言う話ではない」というコメントも引き「中間管理職さながらだ」と皮肉っている。ここで憤りが胸の奥から脳髄の奥から吹き上げてくる。まぁ、少し頭を冷やそう。仕事が優先である。

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2012年7月19日 (木)

ジョン・ロード追悼

 ディープ・パープルのキー・ボード奏者、ジョン・ロードが16日、ロンドンで亡くなった報道を読んだ。若き頃、彼らの作品に刺激された者として心から追悼する。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」はじめ代表曲は、日常の繰り返しに疲れ弛緩するとき喝を入れられる思いで聴いてきた。その恩に感謝し追悼する。今宵は久しぶりにディープ・パープルを聴いて寝苦しい夜を夢の中で突っ走ろう。

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アカボシゴマダラ

 先週の朝、出勤のため自転車で駅まで行く途中に蝶の死骸が路に。何とアカボシゴマダラではないか。瞬時に察知した。小生の故郷、奄美で小学校5年生の頃に夢中になっていた頃に採集したことがあるからだ。しかし、まさか、である。確かこの蝶は日本では奄美にしか生息していない。少年の頃に蝶図鑑ではそう解説していた。それで小生はその姿を眼に焼き付けたのである。それが何と死骸とはいえ奄美から遠く離れた埼玉で出会うとは。
 ネットで調べてみると1995年に埼玉の浦和で初めて確認されたという。中国の亜種らしい。アカボシゴマダラは奄美大島を北限とする南方型の蝶だが中国南部には広く生息する。ところが、1990年代に中国から愛好家が日本に持ち込み飼育していたことがあるらしい。このアカボシゴマダラが野外に逃げたり逃がされて繁殖した可能性がある、とネットのページは説明している。
 それはともかく埼玉の地で少年の頃に採集した蝶に出会うとはいったいどういう縁なのだろうか。何年か前に引っ越す前に住んでいた埼玉の草加市でナガサキアゲハの姿を見て驚いた。しかしナガサキアゲハは名称の通り九州には広く棲息する蝶である。ところがアカボシゴマダラは奄美が北限の蝶だ。その不可思議さを愚想する。
 少年の頃に図鑑で学んだことだが蝶は台風などで思わぬ遠方へ運ばれることがある。これを迷蝶と称する。しかしネットの解説では埼玉のアカボシゴマダラが中国(奄美とは書いていない)から台風で埼玉に到達したとは考えられないと記している。この記述者の推測は中国から愛好家が持ち込んだ個体がたまたま埼玉で繁殖したのだろうというものだ。事実は小説より奇なりである。謎は残る。というより小生にはひと夏の不思議な出会いとして強く印象に残った。
 ところで奄美で蝶はハベラあるいはアヤハベラと呼ばれているらしい。恥ずかしながら奄美出身の小生は知らなかった。それは「島ノ唄」(2006年 伊藤憲監督)という映画の中で島尾敏雄夫人の島尾ミホさんが問わず語りに話していて初めて知ったのである。ミホさんは「蝶は奄美では神の化身とされている」とも語った。それが強く印象に残っている。以来小生の蝶を見る眼は変わったとも言える。そうはいっても俄かに蝶を神と見ることができないのも現代人の融通のきかないところだ。数十年ぶりに見たアカボシゴマダラは死骸だった。ではそれは死んだ神である。しかし神も死ぬのか?かつて西洋の知者は神は死んだと叫んだのではなかったか?愚想は妄想へと変遷しそうだ。

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2012年7月 8日 (日)

真珠の耳飾りの少女

  ここ数年、フェルメールの作品を何点か見てきた。その真打登場とでもいう「真珠の耳飾りの少女」にやっと巡り会える思いで上野の都美術館に出向いた。夕方の4時ごろ会場に着くと何と20分の待ち時間。お目当ての作品はこれまた長蛇の列。しかし肩越しでもよければ作品近くで見られるというので、しばらく待ったら前列で見ることができた。
 期待が少し大きすぎたのかもしれない。これまで見た他作品から直覚したオーラは感じられなかった。まぁ、行列にうんざりしたのと、もう少し至近距離でじっくり見られなかったこともあるだろう。しかし、それは他作品の強烈な印象に比べればそういう理由でもないようにも思った。
 ここ数年で観た作品の中では何といっても「牛乳を注ぐ女」(1658~1659)のオーラが傑出していた。それは画集で見るのと本物が如何に異なるものであるかということを痛烈に実感した。それから「手紙を書く女と召使い」(1670~1671)。これも同様だった。
 作品は恐らく修復というか、お化粧されている。小生の画集(小学館 2006年7月10日)は、いつ頃撮影されたものか不明だが少女の顔には亀裂が走っている。それは「少女」(1665~1666)もそうである。300数十年たてば作品は劣化する。しかし修復で原画の輝きが増す場合と逆の場合もあるだろう。今回の少女の白目の部分と真珠の白い輝きは画集とは明らかに異なる。それは本物の輝きが実感されたのは収穫と言えた。「手紙~」の女の衣服の白にも共通する衝撃的な美しさだからだ。それに「真珠の~」の背景の黒も同様だ。そこには黒々と塗り込められた、画集にはない艶があった。いずれにしても9月までに何回か訪れよう。レンブラントの神品のオーラを発している作品も展示されている。

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2012年7月 3日 (火)

紫陽花

 先日、仕事で紫陽花を観る機会があった。栃木のある企業が地元の人々を招き継続しているイベントで。役得というものである。この花を観ると思い出すのが塚本邦雄の破調の短歌だ。
 
 切って棄てたる愛國心の残臭と黴雨あけ塵芥函の濃紫陽花

 塚本は2005年の6月9日に亡くなった。以来、梅雨時には紫陽花が気になる。聞けば紫陽花は日本原産という。塚本の作品は「愛國心」と「塵芥函」という対比が痛烈だ。沖縄戦から8月15日にかけては柄にもなく先の大戦を思い起こし塚本の作品と共に或る感慨に浸る。今年は先に亡くなった吉本隆明の著作や詩と共に此の国の歴史を想い起こしている。塚本の作品は戦後を生きる一人の男の日常を炙りだしている。夏の陽光は、歴史の果てに現存する悲哀と苦痛、怠惰を思い知らせる。

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