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2012年5月20日 (日)

滅亡と幻について

 昨年の巨大地震と福島原発事故によって私たちは或る滅亡と、未来の滅亡の予兆を体験した。しかし我々日本人という人種は過去から何も学ばず、仏教的な無常観で未来の滅亡を受け入れる世界でも稀有の人々だ、というのが辺見 庸が『死と滅亡のパンセ』の著作だけでなく数年来の著作の通奏低音と見做せる独語である。辺見(以下、敬称は略させて頂く)の警告ともいえる思索は検証してみなくてはならない。それは先に逝った吉本隆明の思想とも絡む内容を含むからである。辺見は晩年の吉本と通算20時間に及ぶ対話で吉本思想の何たるかを対面、正面して自分なりに納得し反発していることが同書には書き記されている。同書の「破滅の渚のナマコたち―亡命と転向と詩」でのキリヤット・F・コーエンとの対話は実に面白い。キリヤットはイスラエルのハイファ生まれのフルーティストと紹介されている。この対話は一読に値する。日本から海外を訪れることなくヘーゲルやマルクスを超えようと思索した吉本と、世界の各地を取材で訪れた辺見の視角の違いが浮き彫りにされているからだ。

 初期の吉本の著作に多大な影響を受けた辺見は晩年の吉本を「世界の風のにおい、体臭を知らない。世界の狂気のすごさを知らない。ヘーゲルはアジアに行かなかったけれどアジアを書きえたと吉本さんは言うけれども、『見てはいない。行った事がない』は、吉本さんのコンプレックスとしてはあるな、と感じたね。長い時間お話ししていただいたり、酒を飲んだりしたし、吉本さんをひととして敬う気持は変わらない。ただ、ぼくの知るかれは、長屋のひとのいい物知りじいさんという印象なんだ」(同書 p57)と書き記している。

 その感想は半分了解するが半分は保留する。吉本も辺見も若き頃にマルクスや仏・独・西の西洋思想を読み解き思想形成をしていった点で共通するだろう。吉本は辺見より戦中派として先の大戦の傷を生身で負っているところは戦後に思想形成を行った辺見とは中身が異なることは言うまでもない。脳梗塞で半身不随とガンを患う辺見が最後の遺言の如く現在の日本に警告を発し続ける言説・論説の根底にあるのは、報道記者として<世界>をナマに見た経験と左翼思想に深く影響された辺見 庸という今や詩人で小説家、そして日本という国家の将来に警告を発する預言者の如き人である。同書は大震災で故郷の地や知人を失った人が人類と日本人の将来に虚脱とシニカルな感慨の中で何事かを明らかにしようと目論んだ思索の過程を記録している書だ。それは幾多の同意と反発を誘発するだろう。そこで熟慮し決断し行動することが、どれほど出来るのか、それを著者は遅れて現れた詩人として、また思索家として我々に問いかける。

 辺見は、故郷の宮城県石巻市を訪れ、武田泰淳の「滅亡について」という1948年に書かれたエッセイを引用する。辺見は泰淳が眺めた敗戦後の風景と大震災によって根こそぎに浚われた自らの故郷の風景を重ねて畏怖し、思考し、絶望し、もがく。同書は、一人の作家のもがきを赤裸々に記した書物として刺激的であり挑発的であり啓発的である。

 我々が此の世に棲み、去ることに果たして<意味>はあるのか?それは先の吉本・小川対談が示唆し考察する両者の思考と思索とも共振する。晩年の吉本の原発支持と辺見の脱原発の言説・論説の射程の比較もしなければならない。キリスト教の滅亡思想と仏教哲学で論じられる一切空という断言と此の世は果たして幻なのか、という問いも絡ませなければならないだろう。

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