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2012年5月29日 (火)

訃報と楽恩

 D・フィッシャー-ディスカウと吉田秀和氏(以下、敬称は略させて頂く)が相次いで亡くなられた。いずれもアカショウビンには楽恩ある方であった。楽恩とはアカショウビンの造語だが、音楽の崇高や楽しさを教えてくれたことに、直接の師弟関係ではなくとも、そのように言葉にするしかないことはご理解頂けるだろう。D・フィッシャー-ディスカウからはシューベルトやシューマンの歌曲の深さと美しさを教えて頂いたし、吉田の批評は音楽の世界のみならず絵画や文学的にも先輩格の小林秀雄の仕事に匹敵する領域に踏み込んだものとして繰り返し読むに値する。このブログで何度か書いたエリー・ナイ評価についても吉田の批評は刺激となった。

 D・フィッシャー-ディスカウをレコードで繰り返し聴いたのはシューベルトの「冬の旅」と「水車小屋の娘」だった。先日、CDショップでD・フィッシャー-ディスカウがEMIレーベルに録音した10枚組みを購入し改めて偉大な歌手の録音を繰り返し聴いている。それはドイツ・リートの孤高とも思える高みに達した境地と言っても差し支えないだろう。先に逝ったエルンスト・ヘフリガーと共に繰り返し聴くべき声である。ご両人ともご長寿でなによりだった。

 吉田については先のエリー・ナイ評やフルトヴェングラーに関する批評が宇野功芳氏と共にドイツ古典音楽を聴くうえで貴重な水先案内人だった。その批評は豊かな音楽知識から分析する、それまでの印象批評を超える新たな世界を切り開いたことは改めていうまでもない。その文体については好悪の分かれるところだろうが緻密な分析力を超える批評家が果たしてこれから出てくるのかどうか。それにしてもアカショウビンにとっては洋の東西で楽恩ある方を失ったことは残念であるがCDや文章で繰り返し教わり直すことができる。アカショウビンにとって西洋音楽だけでなく音楽は此の世に生きる楽しみである。それを教えて頂いたことに心から感謝しご冥福を祈りたい。

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2012年5月20日 (日)

歴史あるいは悪について

 辺見 庸(以下、敬称は略させて頂く)の近著を読み、吉本隆明・小川国夫の対談を読み、そこに共通する主題の如きものを掬い取ってみるとすれば、悪とは何か?という問いが提出できる。故郷の大地が大津波に根こそぎにされ、自然の猛威に呆然と立ちつくすしかない作家の思索と、オウム真理教と麻原彰晃について吉本、小川、辺見はそれぞれの立場で鮮やかな相違を呈している。吉本は戦中派として、辺見にとっては呆然とするしかない昭和天皇、麻原評価を述べる。「ぼくにとっての絶対的なものは、ひとつは戦時中の天皇であって、その後、戦後民主主義の中ではひとつもなくて、二度目に現れたのがオウムだったんです」と。辺見は吉本の言うところに唖然としながらも「「その無防備さをぼくはかえってちょっと好感した気がする」と述べる。そこに共通するのは善と悪という論点で、行動する人間への凝視と考察の極北とでもいう思索の到達する領域の不可思議さとでも言えようか。

 吉本は無神論者として親鸞の思想を通じて悪という概念を思索する。それは洋の東西で共通する主題でもある。ハイデガーは親鸞の思想に鋭敏に反応する。それは恐らくカール・バルトの聖書読解を介している。バルトの親鸞評をハイデガーは読んで親鸞の悪人正機という思索と仏教思想に対決する契機を見い出したに違いない。それはシェリングの悪の形而上学を思索する過程に親鸞が既に根底的な思索をしていた事に対する驚愕と敬意として今に伝えられていることは先のブログでも書いた。

 辺見が大震災後の故郷に立ちつくし思索する思考とボードリヤール、ル・クレジオの思索は吉本の晩年の思索に大きな不協和音となって辺見には受け取られ拒絶される。その詳細は追求しなければならない。その主題とも成り得るのは人間が継続してきた<知>とは何か?という問いにもなるだろう。辺見 が蛇蝎の如く嫌悪するニッポン国の歴史は辺見が唾棄するように世界の中で際立って異質なものとしてあまりにも性急で西洋的な思想基盤で否定されているのではないか?という疑念が湧き起こるからだ。

 「個人」という際立って西洋的な概念に辺見は依拠して泰淳が生み出した海綿状のニッポンという国の異様さを忌み嫌う。そこに文学的な想像力の飛躍は面白くても、それでニッポンの歴史と日本人の全てを否定することは出来ないくらい辺見が理解していない筈もない。しかし辺見は、まるで悪役に徹する覚悟を吐露し、詩人として、物書きとして現実のニッポンを介してその歴史的世界にも否定的言辞を紡ぎ続けるのだ。

 その衝撃度は際立つ。大震災後、原発事故後の凡百の論説を罵倒し辺見は左翼的な立場を鮮明にする。それは陳腐な構図とも言える。しかしその視野はニッポンを介して世界の現状と未来にも及ぼうと意図するものである。そこで吉本の原発支持の根底にある原子物理学という知の本質が問われなければならないだろう。吉本は恐らく科学的知として展開、発展し到達した現在と未来を楽観している。そこに辺見は観念論ではなく現場の状況と現実から違和を発するのだ。昭和天皇、麻原彰晃、原発支持にしろ、吉本の論説と言説は多くのマスコミはじめインテリたちの凡百からは隔絶した出色のものである。

 吉本の晩年は辺見が呆れるようにボケ老人の戯言ではないと思われる。そこには辺見のこの数年の著作に通底する怒りと憤りが生涯を通じて吉本の思索の根底には失われてはいないと思うのだがどうだろう。晩年の吉本は右翼からも左翼からもお笑い芸人たちからもいいように「使いまわされた」と辺見は歎くが果たしてそれはそれほど安直なものなのか?辺見の対話の相手のキリヤットが「かれ(吉本)の罪の功罪の大半は、原発肯定論だけやない。きみ(辺見)のいう全般的肯定的思惟の肯定だった気がするな。ニッポンはヨシモトを未消化のまま食って、未消化のまんま排泄したんやないの?なんやただ空しく消費したような気がする」(「死と滅亡のパンセ」p48)という話も実に興味深いではないか。

 そこで改めて考えてみたいのは、歴史とは何か?という問いである。「歴史とは過去と現在の対話である」と定義したのはE・H・カーである。その定義には「歴史とは、一方の人間が他方の人間に対して精神と力のいわゆる優先権を持とうとする試みであり、法と自由のイデオロギーによって偽善的に覆われた生存競争であり、厳粛さと空虚さとを賭けて互いに競い合う新旧の人間の義の浮き沈みである。神の裁きは歴史の終極である」(「ローマ書講解」[上] 2001年 平凡社ライブラリー p160)とするカール・バルトの定義を対置させて考察しなければならない。

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滅亡と幻について

 昨年の巨大地震と福島原発事故によって私たちは或る滅亡と、未来の滅亡の予兆を体験した。しかし我々日本人という人種は過去から何も学ばず、仏教的な無常観で未来の滅亡を受け入れる世界でも稀有の人々だ、というのが辺見 庸が『死と滅亡のパンセ』の著作だけでなく数年来の著作の通奏低音と見做せる独語である。辺見(以下、敬称は略させて頂く)の警告ともいえる思索は検証してみなくてはならない。それは先に逝った吉本隆明の思想とも絡む内容を含むからである。辺見は晩年の吉本と通算20時間に及ぶ対話で吉本思想の何たるかを対面、正面して自分なりに納得し反発していることが同書には書き記されている。同書の「破滅の渚のナマコたち―亡命と転向と詩」でのキリヤット・F・コーエンとの対話は実に面白い。キリヤットはイスラエルのハイファ生まれのフルーティストと紹介されている。この対話は一読に値する。日本から海外を訪れることなくヘーゲルやマルクスを超えようと思索した吉本と、世界の各地を取材で訪れた辺見の視角の違いが浮き彫りにされているからだ。

 初期の吉本の著作に多大な影響を受けた辺見は晩年の吉本を「世界の風のにおい、体臭を知らない。世界の狂気のすごさを知らない。ヘーゲルはアジアに行かなかったけれどアジアを書きえたと吉本さんは言うけれども、『見てはいない。行った事がない』は、吉本さんのコンプレックスとしてはあるな、と感じたね。長い時間お話ししていただいたり、酒を飲んだりしたし、吉本さんをひととして敬う気持は変わらない。ただ、ぼくの知るかれは、長屋のひとのいい物知りじいさんという印象なんだ」(同書 p57)と書き記している。

 その感想は半分了解するが半分は保留する。吉本も辺見も若き頃にマルクスや仏・独・西の西洋思想を読み解き思想形成をしていった点で共通するだろう。吉本は辺見より戦中派として先の大戦の傷を生身で負っているところは戦後に思想形成を行った辺見とは中身が異なることは言うまでもない。脳梗塞で半身不随とガンを患う辺見が最後の遺言の如く現在の日本に警告を発し続ける言説・論説の根底にあるのは、報道記者として<世界>をナマに見た経験と左翼思想に深く影響された辺見 庸という今や詩人で小説家、そして日本という国家の将来に警告を発する預言者の如き人である。同書は大震災で故郷の地や知人を失った人が人類と日本人の将来に虚脱とシニカルな感慨の中で何事かを明らかにしようと目論んだ思索の過程を記録している書だ。それは幾多の同意と反発を誘発するだろう。そこで熟慮し決断し行動することが、どれほど出来るのか、それを著者は遅れて現れた詩人として、また思索家として我々に問いかける。

 辺見は、故郷の宮城県石巻市を訪れ、武田泰淳の「滅亡について」という1948年に書かれたエッセイを引用する。辺見は泰淳が眺めた敗戦後の風景と大震災によって根こそぎに浚われた自らの故郷の風景を重ねて畏怖し、思考し、絶望し、もがく。同書は、一人の作家のもがきを赤裸々に記した書物として刺激的であり挑発的であり啓発的である。

 我々が此の世に棲み、去ることに果たして<意味>はあるのか?それは先の吉本・小川対談が示唆し考察する両者の思考と思索とも共振する。晩年の吉本の原発支持と辺見の脱原発の言説・論説の射程の比較もしなければならない。キリスト教の滅亡思想と仏教哲学で論じられる一切空という断言と此の世は果たして幻なのか、という問いも絡ませなければならないだろう。

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2012年5月18日 (金)

出張日記

 駅に続く道路の脇に植えられた銀杏の樹の上をアオスジアゲハが他のアゲハ蝶とはまるで異なる、眼で追うこともできない速度で飛翔する姿を背景のくすんだ青空と共に眺めていると、あぁ、夏が近いのだ、と何やら腑に落ちるものを感じた。ガキの頃に故郷の山で蝶を追っていたころはアカショウビンの生のエネルギーが全開し充実し周囲の自然が実に生き生きと鮮やかで躍動していたような気がする。生の終わりを覚悟しなければならない歳になり死は少しずつ濃密に心身にひた寄せて来ている。時にガキの頃に蝶を追っていた真夏の時空が虫の声や遥か彼方の海の碧さと共に幻聴と幻視となって脳髄に現われることがある。それはもしかしたら通告のようなものなのか。覚悟せよ、というような意味を伴う。あるいは精神的な病の前兆の如きものか。

 一昨日から仕事で信州を訪れている。一泊のつもりが昨夜もう一泊。仕事先では収穫があったところも、保留のところも。いつもは少しく長居をすることも多いのだが今回は皆さんお忙しそうだ。ある企業では事務所に誰もいないのでパートの女性らしき人が気をきかせて事務員さんを呼んできてくれた。腰の曲がった高齢のお婆さんだった。おそらく社長の母親と思われた。立ち話だったが丁寧に応対してくれた。その姿に我が母の姿も重なった。息子は工場作業で忙しいのである。それほどの利益が出るとも思われないが毎日毎日黙々と作業に専念しているのであろう。その母親の姿を見れば瞬時に親子関係の本質の如きものが直観された。それは波風はあれども、毎日の労働からすれば経済的に決して豊かとはいえないものではあっても幸いと言ってもよい日常と思われた。アカショウビンの母親にも言える、敗戦後の貧しい時代に子を産み育て生き、生きた女たちの多くに共通する姿とも思われる。それは、現在のような飽食の中で生きる女たちとは現象的に異なる女の一生である。

 夕食は駅の近くの和風のレストランへ。以前に入ったことがあったが安くない。それを忘れていた(笑)。和風の看板に誘われてしまったのだ。隣の席は若い女たちが4人。学生風な風情を残しているがAKB風ではない。彼女達に共通した風情は、かつて訪れた東南アジアの国の女たちや中国の田舎で見た恥じらいを含んだ笑みが醸しだす奥ゆかしさと不安の如きものを有していたのが好ましかった。そこには此の国で失われたと思ったものが残されているとも思われた。単なるいつものこちらの思い込みかもしれない。往々にして奥ゆかしさは退行し饒舌に、不安はその裏がえしとして過剰な欲望に変わる。しかし仕事に追われる日常に暫しの時間、それが凌げた、と思える瞬間にも遭遇する。今朝は朝のテレビでベートーヴェンの作品30のヴァイオリン・ソナタの名演も途中からだが聴けた。それも恩寵の如きものだった。

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2012年5月12日 (土)

宗教論争(続)

 吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)と小川国夫の対談が初めて文芸書に出たのは「文藝」1971年10月号である。タイトルは<家・隣人・故郷>。次は1974年11月号の「野生時代」に、<宗教と幻想>というタイトルで。翌1975年には「伝統と現代」11月号に<生死・浄土・終末>、のタイトルで行われている。それからしばらく間が空き、1988年に<新共同訳聖書を読む>のタイトルで「新潮」2月号に掲載された。最後の対談は1996年2月号に<宗教論争>のタイトルで「文學界」に。このタイトルが小沢書店の両氏の対談集のタイトルとして使われているわけだ。

 そこに共通しているテーマは大きく括ると、キリスト教と仏教とはどういう宗教なのか、ということを小川は信仰者として、吉本は親鸞を読み解くなかで無神論者というより唯物論者として互いは語り合っている。小川より吉本への関心の中で両者の対談をアカショウビンは久しぶりに実に興味深く読み直した。その中でも最後の対談がオウム真理教(当時)に言及する中で鋭く対立しているところが「宗教論争」というタイトルになったのであろう。しかしながら20数年にわたって継続された両者の対談が決裂に至るわけでもなくオウムや麻原を介して立場と論点が改めて鋭く浮かび上ってきたということになる。

 それは最後の対談の中で小川がドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフの「ナポレオンは百万人を殺して英雄なのに、僕が、金貸しのお婆さんとその姪を殺すのは何故いけないんだ」という疑いに捉えられる箇所を引用しているように、「文学にとっては永遠のテーマといってもいい」と小川は語る。二人はまるで「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャとイワンのように、あるいは「悪霊」のキリーロフとスタブローギンのような立場で対話を演じているようにも思えたのは錯覚だろうか。吉本は、「文学だからこそ、現実よりも悪を包括できるということはありますね」と応える。左翼文学の影響から考えはじめた、と明かす吉本が文学作品の評価の仕方として、「なるべく最大限に、善も悪も包括できているかというところにある」という言葉は文芸批評家として、あるいは思想家としてオウムや麻原を見る凡百の駄言の浅薄と狭さと吉本の視角と視線が届く広さの懸隔を明かして余りある。それは新約や旧約の聖書読解を通じて或いは親鸞の思想・思索を辿ることで獲得したものと思われる。

 これに応えて小川はフォークナーの「八月の光」の最後の殺人シーンを挙げて主人公を介して著者が米国南部のピューリタンによる偽善的な社会に主人公が「楔を打ち込んでいるようにも読める」と語る。それはキリスト教社会の偽善というものをフォークナーが作品で描いた米国という国家の現実を介して想起させる複雑さと仏教哲学で言えば業の深さとでもいうものである。その結末は「ミシシッピー・バーニング」(1988年 アラン・パーカー監督)という映画で強烈に描かれているキリスト教社会が主導する他民族国家としての米国社会が負い続ける癒し難い深い傷のようなものとして想起する。

 小川は当時のオウムに対する「一致した反対は、残念ながらK・K・K(クー・クラックス・クラン)に似ていますね」と話している。

 現在まで続く中東の紛争による無残な殺し合いは宗教を介した民族対立の酷薄さを映像で生々しく伝える。吉本・小川対談は、その根深さにも思い至る。救いは恐らく宗派、教団を超えたところにあるだろう。その世界はアカショウビンが生きている間には訪れないだろうが未だ日本は殺し合いがないぶんだけ幸せで暢気だ。終末はいずれ来るだろう。しかし些かの抵抗と思考は継続しなければならない。

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2012年5月 7日 (月)

宗教論争

 吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)が亡くなり、氏の著作や対談集を読み直している。アカショウビンは若い頃から吉本には親炙しているが熱烈な信奉者というわけでもない。60年安保の頃から吉本に関しては賛否両論が喋々されてきたが、アカショウビンからすれば戦前・戦中・戦後を経験した父親の世代の中では実に啓発的で、文学青年には無視できない存在だった。詩人として、文芸批評家として、思想家として、実に鋭く大柄な人として後世にも記憶されることは間違いないと思う。亡くなってアレコレ読み散らしているが『宗教論争』(小沢書店 1998年)は1971年から1996年まで断続的に行われた吉本と小川国夫の対談をまとめたものだ。それは親鸞に依拠する吉本とカトリック信仰者としての小川の「論争」だが、お互いに相手を理解しながら仏教とキリスト教の何たるかが浮き彫りにされた内容である。最後の1996年の対談はオーム真理教と麻原彰晃についても論じられている。マスコミがこぞってオーム、麻原批判に染まっていた時の吉本の麻原評価は出色だった。また、以下に引用させて頂く、夕刊紙での五木寛之のコメントは興味深かった。

 オウムは原始仏教、大乗(マハーヤーナ)、金剛乗(ヴァジラヤーナ)の三層から成る。定方晟(あきら)氏によるとオウムは智慧を代表する般若心経と慈悲を代表する法華経に興味を示さない。この両者はともに修行を重視しない点において共通しており、むしろ信を重視する。修行にかかわる経典だけに異常な関心を示した。たぶん超能力こそが彼らの仏教に求めたものではなかったのか。般若心経はそのような力への依存を否定する。法華経は衆生への愛を説く。(1995年10月17日 日刊ゲンダイ 五木寛之「流される日々」 4093回 故村井秀夫、東山に睡る⑦)

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2012年5月 5日 (土)

陶酔と熱狂、未熟と成熟

 先日買ってきて観ていなかったDVDを、ラジオから流れるボーイ・ソプラノの唱歌で目覚めた後に観た。「甍の波と雲の波~」と歌われる幾らかの文語の歌詞の全てを少年は理解していたわけでもなかろう。アレコレ愚考を巡らし、ザ・ローリング・ストーンズの1969 年の全米コンサートを記録した「ギミー・シェルター」を衝動的に観る。今や初老に差し掛かり往年のエネルギーを発散する彼らの映像を観たのは数年前、六本木の劇場だった。

 1969年の映像と音は若きミックが歌いまくり腰を振り、歌唱と絶叫の間を動き回る。DVDは4人の死者も出したオルタモント・コンサートの様子を編集するプロセスを更に編集している。1969年、その映像を43年後に観聴く。アカショウビンの生は既に老いの兆候から死を自覚する時に差し掛かっている。1969年、東京オリンピックの5年後だ。思春期の未熟は将来の希望と不安に揺れていた。ストーンズを聴いたのは中学3年の時だ。ラジオから流れる「ルビー チューズデイ」が、田舎の中学生には何とも異国の音楽と、大袈裟に言えば、形而上学的に<世界>と論じられる概念への通路を開く、と説明してもよい興味を掻き立て新鮮に響いた。思春期は音楽に飢え衝動的に反応する。友人のI君はPPMのドーナツ盤を買い、そのジャケット写真のマリー・トラヴァースの胸の谷間に魅入っていた。今や成人した二人の娘の父親のI君の中学時代の姿が眼に浮かぶ。懐かしい思い出だ。

 アカショウビンは高校にあがり友人たちとも離れた。時代は沸騰していた。大学と警察の闘争がテレビ映像で流された時から数年。その闘争は小説家が自衛隊に突入し驚愕する死を遂げたことで意外な展開を迎えた。思春期は混乱と錯綜の世相の渦中で坩堝の水の沸騰のように過ぎていった。入学した首都の大学は大学闘争の名残りはあったが既に白けた気分が支配し始めていた。将来はどのように切り開けばよいのか?それは、いつの時代にもある懊悩と試行錯誤だろう。

 それから43年後、1969年の異国の映像を観る。アジアでドロ沼の戦争の嵌まり込む国家の若者たちはヤク中、アル中の陶酔と熱狂のなかでストーンズのステージに熱狂する。4人が死に出産もあった。戦場でない土地で熱狂、喧騒する姿は、ベトナムの地獄からすれば児戯のようなものだ。それは未熟と無関心の間で常に揺れ動く<世界>の現実を写し取っている。

 ミック・ジャガーの若き姿が歌い飛び跳ねる。会場は熱狂し騒乱する。演奏は中止され、その映像をスタジオでメンバーが自分たちと会場の情景を見直す。映像と中断した演奏は編集される。娘や長髪の男たちの狂騒の中でミックの声が響き渡る。1969年の米国オルタモント。そのバンドが老いに至り未だ健在であることを知ったのは数年前の首都の劇場だった。それは彼らとアカショウビンの生の不可思議な交錯である。

 若きストーンズとアカショウビンの未熟は成熟に至ったのか?1969年の映像と2012年の現在は、どのように関係しているのか?やがて来る彼らの死とアカショウビンの死が全て終結と未済として残されるだけなのか?

 それでも、異国の歌とギターとドラムスの響き、は此の世の現在と過去、将来を愚想させる。2012年の現在の無関心と幾らかの喧騒は1969年の陶酔と熱狂と未熟を成熟に導くだろうか?

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2012年5月 2日 (水)

弦楽四重奏の現在

 朝のテレビの音楽番組でヤナーチェクの音楽と久しぶりに出会った。演奏者は若い男女4人のパヴェル・ハース弦楽四重奏団。若者たちが音楽に集中している姿が何とも清々しい。カルテットの名称はヤナーチェクの弟子で44歳という若さでナチスにアウシュヴィッツのガス室で殺された音楽家という。その名前を自分たちの楽団の名称に使ったところには強いメッセージを看取する。番組ではヤナーチェクの作品の後にハースの弦楽四重奏第3番を演奏していた。ベートーヴェン以降、20世紀に弦楽四重奏作品がどのように創作され若い音楽家たちに演奏されているのかを目の当たりにできたことは幸いである。互いに瞬視を交わしながら新たな音を紡ぎだし奏していく姿は、日常から非日常を創りだす喜びに満ちているとも言える。その集中を再生とはいえ音と映像で共有できる経験は貴重だ。

 この四重奏団の名称は現代史にも深く関与している。それはまた別な話のようであるけれども、演奏する若い演奏家たちの日常と出自にとっては別な話ではないようにも推察される。それはさておいても聴くべきは演奏される作品と演奏者たちの音楽と姿である。アカショウビンには、それほど馴染みがあるわけではない。いずれCDでヤナーチェク、ハースの作品に集中しアカショウビンの最近の弛緩した日常に喝を入れよう。

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