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2012年4月22日 (日)

死とは何であるのか?

 先日、スーちゃんこと田中好子さん(以下、敬称は略させて頂く)の死から1年が過ぎ、テレビで夫のインタビューを含めた番組を途中から見た。そこで死は美化されている。夫の言葉が田中の死に釣り合っているとも思えない。アカショウビンのように青春の或る時期からテレビの人気者として、あるいは女優として生きた一人の女の、平均寿命からすれば、あまりにも早い死は他人事とも思われない。自らの此の世での生の終わりを自覚し、地震・津波・原発事故で亡くなった人々の死を悼み、か細い声で此の世での別れを告げる肉声はあまりにも哀れで、かつ田中の気丈さと気高さは了知しても、職業倫理から仮構された虚構と見做すこともできる。そこにあるのは、ある職業に就いて多くのファンを得た人が持った倫理感の強さを介して人という生き物の特異さを痛感する。何やら晦渋な物言いで恐縮。

 古代から、死を忘れるな、未だ生を知らない死などわかるはすもない、といった警句や回答から、死は語られ、論じられ、思索されてきた。そこでの様々な回答は、それぞれに軽重や濃淡がある。死について問い、回答が出来ても、その本質を言葉にすることは出来ても、それで死が何であるか、という問いに死という生命が負う必然は言葉で示唆できるにすぎない。人間に死を了解することはできまい。それは他人の死を経験することができないことからして明らかだ。

 私たちは、昨年の東日本大震災で多くの人々の無念な死を知った。それらの死と田中の死は異なる死にかたである。人々もアカショウビンも、自らの生を振り返れば、そのような異なる死にかたを覚悟せざるをえない。先のブログで引用した渡辺京二は新聞記者のインタビューで「人間は死ぬから面白いのだ」と答えた。田中の死やアカショウビンの母の死は生きた時間の長さはともかく、大震災で亡くなった多くの人々の死からすれば、ある思索者の言葉を借りれば、能く死んだとも思われる死にかただ。それは思索者が考察する事柄とは異なるかも知れぬが、津波で死ぬ死に方からすると死への覚悟の時間があったことは幸いとしなければならないだろう。

 そのような愚想はともかく、映像で知る死を見ている多くの者はファンでない人々も号泣し、嗚咽するしかない。しかし、死とは一体何なのか、という問いにどう答えればよいのだろうか?宗教者や賢人たちの、ああだ、こうだ、という幾つかの答えが出てくるだろう。その幾つかを絞り込めば正解は得られるだろうか?死とはそういうものではないように思うがどうだろうか?人類が、この惑星を支配し、死への回答を与える選ばれた生き物のようにも見えるが、それは錯覚にすぎまい。にも関わらず、人間の死とは一体何なのか?という問いを発さざるをえないのだ。

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