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2012年4月10日 (火)

離群

 渡辺京二氏(以下、敬称は略させて頂く)の『なぜいま人類史か』(2007年 洋泉社MC新書)で〝離群への衝動〟という一節がある。氏は「私は死ということがどうも苦手な男でありまして」と述べ、講演した寺の住職に「私は死ぬのがきらいでございます」と話したら、住職は「あなたが死にきらんときは、私が打ち殺してあげます」と応えられ「大そう叱られました」と書いている。(p24)まるで禅問答のようだが住職は真宗である。

 この論考は、1986年に熊本県健軍の真宗寺で講演した「原型」に「徹底的に書き込みを行って、書き下ろしの論文に近いものにした」ものであることには注意しなければならないだろう。人間は猿や或る種の動物たちやミツバチなどのように、この惑星で群れることによって生き延びてきた。しかし群れから離れ生きようとする者もいる。群れから生存競争のために追い出された者もいるし自ら離れて生きることを選んだ者もいるだろう。離群という語が生物学か動物学の術語か漢籍に出典があるのか知らないが、たぶん渡辺の造語だろう。それは自らの生き方を語として作ったように思えるからだ。

 かつての講演に何年かの時を隔てて渡辺は、その間の学問の精進と思索を新たな命を吹き込むかのように集中し注入したように思われる。それは群れから離れ、近づき、思考・思索してきたと推察する渡辺の執念の如きものを読み取るからである。以前に述べたようにアカショウビンは『北 一輝』以来、数年前に『神風連とその時代』を読み、ここのところ幾つか氏の著作を読んで面白い。それは先日亡くなった吉本隆明の生涯の思考・思索と響き合う。京都生まれで大連で育ち、熊本の旧制高校で学び、病で遅れて首都の大学を卒業し熊本に戻り水俣病裁判闘争に関わり、現在もマスコミのインタビューで苛烈な発言を続ける渡辺の言動は昨今の女子大生をも挑発しているらしい。それが何やら可笑しく、面白く、将来への可能性を垣間見る思いがするのである。

 渡辺は吉本より少し年下だが、マルクスや西洋哲学にも習熟し先人の吉本や谷川雁の論考・思索を痛烈に意識している。そこが後に続く者たちが避けて通れない物書きという存在になっているのではないかと思われる。吉本の死で先日から、小川国夫との共著となる『宗教論争』(1998年 小沢書店)も読み直し、アレコレ愚想を巡らしている。その感想は後日。

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