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2012年4月25日 (水)

竹中 労と美空ひばり

 戦後生まれのアカショウビンが中高年の歳になり余命がいくらあるか知らない。しかし、その間を生きた時空間は「戦争を知らない子供たち」という歌の文句を借りれば今の若者たちと同じだ。しかし両親の話や物心ついて読み見聞きした時代は大戦の後の「戦後」という時空間である。去る者日々に疎し、という世の習いから言えば戦後は終わり既に戦前へと向かう時空間の中にあると賢しく言うこともできよう。そんなこんなを愚想するのも「完本 美空ひばり」(竹中 労 ちくま文庫 2005年)を読んでいてである。竹中によれば美空ひばりという歌い手は「民衆」から生まれ出た不世出の歌姫である。戦後の歌謡曲史、芸能史の中で毀誉褒貶はあれど、日本人の基層にある情念を歌えた傑出した歌手である、というのが竹中の主張である。それには本書を読みながら同意する。アカショウビンとて美空ひばりという歌手が周囲のなかでどのようにみなされていたかを実感として承知しているからだ。竹中 労という〝性風俗ライター〟から〝芸能評論家(芸能評判家(?)〟(「あとがき・朝日文庫版」 同書p320~321 )に変貌する出世作が同著である。それは戦後史に対する竹中の心のたけを、美空ひばりという戦後の日本が生みだした唯一の〝国民歌手〟を介して、あるいはダシにしてと言ってもよいだろうが、戦後史への違和を集約した著作である。そこが刺激的で挑発的なのだ。竹中の戦後体制への怒りと情念は、ひばりという竹中が日本人の情念を歌にできた、敗戦後の時空間の中から生まれた、という意味での不世出の歌い手、を追跡するなかで一つの著作として啓発的だ。

 竹中の声がもっともよく聞きとられる箇所を引いておく。

 戦中―戦後の「歌暦」を、私はアトランダムに年譜にとらわれず書きつづってみた。いわば、この雑駁な「巷談」は、日本の民衆史の空白な部分を補うための埋めぐさである。民衆の歴史は、もっぱら、被虐の系譜で描かれてきた。戦後、私たちはいやというほど、民衆の悲惨を描いたドラマを見せつけられた。そこで名もなくまずしい庶民大衆は、つねにしいたげられ迫害される存在であった。裏がえしていえば、民衆は無力で意識のひくい、デクノボーの群体としてとらえられていた。私たちは、ほんとうの意味での民衆芸術を、戦後長い期間にわたって持ち得なかった。たとえば、戦後文学の代表作はときかれたとき、即座に一篇の詩を、戯曲を、小説を挙げて答えられるだろうか?太宰治の一連の退廃小説以外に、「戦後」と真摯に対決した文学を持たぬことは、私たちの不幸ではないのか?(同書p260)

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