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2012年3月 9日 (金)

晩祷

 音楽に餓えていた若い頃に聴いて、人に魂というものがあるとするなら、それが音叉のように共振する体験をしたのは、ラフマニノフの「晩祷」という作品を聴いたときである。レコードはたしか2枚組だった筈だ。それはどこへいったのか、現在手元にあるのはCDである。しかし、そこに聴ける、この作品の本質の如きものは、久しぶりに聴いて、アカショウビンにとって掛け替えのない、人の声を通じて魂の深淵を音として響かせる思いに浸らせる。恐らく洋の東西をとわぬ人が祷るという行為をそこに聴く。それがロシア正教会の夕べか徹夜の祷りという衣装をまとっていても、中の心身は合唱のハーモニーとソリスト達の声を通じて幻聴のように聴こえて来る。

 この作品と出会ったきっかけは既に思い起こすことができない。しかし、未だに言葉の意味がわからなくても、この声に満ちているものは、人という生き物の存在とも魂とも思われる時空から発されるものだ、ということは直覚する。

 ヴェルディやモーツァルトのレクイエムに聴ける祷りとは次元を異にするとも思われるものがあるのではないかと愚想する響きがここにはあるように聴く。敢えて言えば、それは純粋な祷りとも言いたくなる。楽器の伴奏はない。人の声だけである。ハイデガーの言葉を借りれば、「芸術作品の根源」の如きものが、芸術という衣裳を借りてではなく、声を媒介として、こちらの精神を共振させる。

 ロシアの教会や或る空間で響く声をアカショウビンは録音で聴く。そこで響く人の祷りは鎮魂という漢語で、とりあえずは伝えられよう。しかし十分ではない。それは正しくハイデガーの説く存在の声とでも言うものだ。

 ハイデガーは、「存在と時間」以来継続する思索の過程で「たしかに、いまや信仰に基づけられた創造思想は全体としての存在するものについての知にとって、主導的な力を失っているかもしれない。しかし、かつて据えられた、[信仰とは]異質な哲学から借用された存在するもの一切についての神学的解釈は、つまり質料と形相とによる世界の直感は、それにもかかわらず存続することができる。このことは中世から近代への移行期に生じたのである」(「芸術作品の根源」 p35~p36 平凡社ライブラリー645 関口浩訳)と1936年に神学校で3回にわたった講演で述べている。

 久しくハイデガーを読む気力が失せている。日々の仕事に追われている日常から自分の別の関心の領域に移る力が出て来ないのだ。それが音楽の力という杖によって幾らか生じる。しかし、それも通勤し仕事に関わることで、いつの間にか失せることだろう。生きるということは、しかし、日常の繰り返しの中で、その力を呼び戻すということであろう。そのようなことを、最愛の音楽を聴き直すことによって暫し取り戻したことは幸いであった。

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