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2012年3月15日 (木)

鬱々として楽しまず時に激怒

 先々週のことだ。朝の通勤の途中で向こうから歩いてきた背の高い若い男と擦れ違った。そのとき男はアカショウビンを右臂で意図的に突いた。こちらは、それでもんどりうって道路に1回転半した。他の通行人が大丈夫ですか、と声をかけてくれた。アカショウビンは、その方に礼を言うまもなく、その若い男を追いかけた。イヤースピーカーをしていて、外の音は聞こえてないふりをしている。こちらが正面に回り激昂しているのだから反応すればいいのに無視する。こちらの怒りは益々噴き上がる。信号の近くを自転車で行き過ぎようとした警備員のような中高年のオッサンたちを呼び止め事情を説明しようとすると無視された。ますますハラワタが煮えくり返った。このまま、このガキに関わると遅刻してしまう。アカショウビンは罵声を浴びせて出勤した。

 怒りは治まらず警察に電話し事情を説明した。しばらくして管轄の交番に連絡がついた。電話で若いパトロール警官は同情して話を聴いてくれた。交番の中年の警官は多少突き放したような声でケガがなくてよかったですね、と話した。その語調にはケガをしたわけでもないのだから、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか、といった含みを聴きとった。しかし、それは一人の市民の怒りに関わりあいたくない仕事上の冷徹さを直感したので、いずれ、そちらへ出向く、と言い捨てて電話を切った。2日後、仕事を終えて交番に行き、その声の主と対面した。仕事の日常に鈍化している中年過ぎのサラリーマンで想定内の応対だった。それなら、こちらは自分で動くしかない。

 若い男は、こちらと眼を合わせようとしなかった。その顔と薄い頬ヒゲは見覚えがある。テレビドラマかCMか何かだ。そこで直感的に察した。こいつは人気商売だから面倒な事にしたくないのだ。変な白髪の爺に関わると仕事に支障を来たすのを直感的に覚ったのだ。ひき逃げ犯みたいな心理なのかもしれない。そうであっても、こちらは黙って済ますことなどしない。警察には届け、そいつが特定できたら、事と次第によっては法を犯してもそいつを弾劾する覚悟だ。

 以前、部下のチンピラ女と、辞職を覚悟で文書でやりとりしたことがあった。先輩、上司に対する無礼を超える不躾にアカショウビンは激怒した。その顛末は会社にも詳細に文書で報告し、事と次第では彼女の親に躾の責任を追求する覚悟だった。つくづく若い男や女の基礎的な立ち居、振るまいが親から躾として教えられていない現実を痛感する。

 それはともかく。そのような日常と仕事のストレスからか、先日は出張先で大事故になる寸前の目にあった。夜の、不案内な土地の暗闇の道路で右折しようとして中央分離帯の縁石に右前輪をぶつけてしまったのである。慌ててバックすると幸い後続車がなく車同士の衝突事故にはならなかった。ところが、近くのコンビニで点検するとタイヤはシューシュー音をたてて、アルミホイールは吹っ飛んでない。これは不味い。レンタカーなのでホテルにも行けない。幸いなことに近くに自動車部品のショップがあった。とにかく、相談してみたら、さすがプロである。スペアタイヤを取り付ければ、とりあえずは走りますよ、と言ってくれた。あぁ、天は吾を見捨てたまわず、と心で手を合わせた。それもまた若者であったが、汚れた仕事着で冷静に言葉少なに応対してくれた彼をアカショウビンは、先の若造と比べて人間の質の違いを直覚した。タイヤ交換費用は千数百円で済んだ。しかしレンタカーは2万円払わなければならない。会社に請求するわけにもいかない。10数年前にも、こちらは被害車であるにも関わらず2万円払わされた。何とも理不尽な規約だ。それ以来だ。ただでさえ食うために四苦八苦しているというのに、これでは踏んだり蹴ったりである。

 憤りと諦めは此の世の習いかもしれない。しかし、諦めなどはしない。覚悟するがよい。アカショウビンはテロリストになる度胸はないが(笑)、ふざけたチンピラ芸能人など、そのままにしてはおかない。警察にも一人の市民が受けた暴力の始末はとってもらう。それができないのなら法を犯しても、その若造をマスコミを通じて引きずり出し事の始末はつけてやる。

 関東から関西に移り住み、アカショウビンは或る地獄を経験した。もちろん、今から思えばである。それを、少し生活が変われば、いとも易々と忘れてしまう。人間など、そんなものだろう。歴史にしてもそうだ。先の大戦で殆どが懲りた筈だが、ネットでは仮想戦争が繰り広げられている。いずれ、また地獄が現出するだろう。昨年の地震と津波、原発事故は、天災と人災による地獄である。それは日本国民にとっても他人事ではない。地獄は冷徹に出現するのだ。それを肝に銘じても現実はそんな人間共どもをせせら笑うように襲ってくるのだ。

 それなら無礼で非礼なチンピラ芸能人やチンピラネエチャンには逆にこちらが地獄を味わわせてやるしかない。

 平穏無事なように見える人々にも地獄は突然に襲いかかる。仏教徒の端くれとして、仏書や思想書を読み耽っても悟りとは隔絶しているのが現実だ。怒りは胸奥から身を焼き焦がすように噴き上がる。それを止めるのは何か。理性や悟性や感性といった西洋哲学用語か?もちろん、そのようなものではない。慈悲でもないかもしれない。

 母を看取るまでの、この3年から4年間にアカショウビンの生活は激変した。その濁流の如き時の流れの中でモガイテいるわけだ。平穏な日常など虚構なのだ。それは現在の政治の茶番を見ていてハラワタが煮えくり返る。仕事に追われストレスを溜めるだけの日々を振り返ってもそうだ。水俣の地獄は東北の人々の地獄として現出したことを人々はやがて忘れる。間違いなく。そこで人は絶望し、諦める。しかし、平穏な日常という虚構を人々は捻り出す。しかし、虚構を虚構として暴き出し人々に知らしめることは可能だろうか?教団や妖しげな教祖たちは、あたかも虚構と現実の境界を自在に行き来するかのように自分たちの虚構を騙る。そこを通過し息がつける時空に至るのは自ら歩き出し探し出すしかない。この数年のアカショウビンの日常は、そこに気がついたことだけは幸いとする。たまには楽しまなければやってられない。まずは、ここで、ささやかな闘争宣言を表明し杯を干し床に叩き割る。

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