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2012年3月24日 (土)

井の中の蛙

吉本隆明(以下、敬称は略させて頂く)は、「死後などあるわけないでしょう。これに気づいたことを最初に思想した宗教者は親鸞だと思います」(「人間と死」)、と述べている。明恵が法然らの浄土教を批判して「われは後世たすからんといふものにはあらず。ただ現世、まずあるべきやうにてあらんといふ者なり」と死後の世界に望みを託す姿勢に反発した姿が吉本の思想と響き合っている。

 また吉本の鶴見俊輔への言及も改めても再考したい。

「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている、という方法を択びたいとおもう。これは誤りであるかもしれぬ、おれは世界の現実を鶴見ほど知らぬのかもしれぬ、という疑念が萌さないではないが、その疑念よりも、井の中の蛙でしかありえない、大衆それ自体の思想と生活の重量のほうが、すこしく重く感ぜられる。生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても、無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の『ナショナリズム』の核があるとすれば、これこそが、どんな政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する」。 

>どんな支配にたいしても、無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の『ナショナリズム』の核があるとすれば、これこそが、どんな政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する。 

★ここにアカショウビンは激しく同意する。この「大衆の『ナショナリズム』」については様々な異論があるだろう。先に引用した田川健三の批判も、いま手元に著作がないので確認することはできないが、あるのかもしれない。吉本が言う「政治人」は、「文化人」とか「インテリ」とも置き換えられる。そこで「大衆」と「民衆」は殆ど同じと理解してもいいだろう。

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